第1198回「若者に禅を語る」

先日は花園大学の授業に行ってきました。

私が勤める総長という役職は、名誉職なので、授業までやらないといけないことはないのです。

ただ私の前任の河野太通老師が、毎月一度講義をなされていたとうかがったので、今まで前期三回、後期三回、禅とこころという講義を行ってきました。

コロナ禍の前までは、公開講座でもあったので、大勢の方がお集まりになっていたのでした。

コロナ禍の間は、ずいぶん苦労しました。

オンラインで行ったり、人数を制限して行ったりしてきました。

今までのように公開講座としたいところですが、今度は集まり過ぎても困るとか、あらかじめ参加者の人数が分からないと支度が難しいとか、いろんなことを考えて、今は申し込み制になっています。

禅とこころは毎週行われる授業ですが、そのなかで私の講座の三回と、佐々木閑先生の講義と、玄侑宗久先生の講義に、関守研吾和尚の授業とが公開されることになっています。

まだまだ募集人員に達しないという事でしたので、ご関心のある方は聴いていただけると幸いであります。

今年は、その禅とこころの授業に加えて、基礎禅学の第一回目に講義をするようにとの依頼でした。

基礎禅学というのは、花園大学に入った学生はみんな受講する授業であります。

全生徒に建学の精神である禅を学んでもらうというものなのです。

授業が始まって第一回目の基礎禅学に出講したのでした。

今回は、この春入学した日本史学科と社会福祉学科の学生さんたちに講義をしたのでした。

授業が始まって間もない時期なので、なんともまだ初々しい感じがしています。

大講義室を使いましたので、私も初めての場所であります。

仏教学科の学生はいませんので、どんな話をすればいいのか、あれこれ考えました。

あまり専門的なことを言っても通じないと思って、大学の校舎の名前を説明するところから話を始めました。

話の始めには、やはり禅を学ぶことは、どんな分野の学問を学ぶにせよ、意味があることだと申し上げました。

日本の文化に、禅は大きな影響を与えています。

日本の歴史にも禅や仏教は密接に関わっています。

また世界からも禅は注目されていることも申し上げました。

その前の日にアメリカのウパヤ禅センターの方々がお見えになって話し合ったことなども紹介しました。

まず少しでも禅に興味をもっておいて欲しいと思ったのでした。

それから大学のキャンパスマップを示して校舎の名前から、話をしました。

大学の校舎の名前は、真人館、栽松館、蔭凉館、返照館、惺惺館、無聖館、自適館、楽道館、などなど禅語がもとになっています。

まず正門を入ってすぐ左手にあるのが、「真人館」といいます。

食堂があり、体育館もあります。

真人館の真人は、『臨済録』にある言葉から来ています。

「赤肉団上に一無位の真人有って、常に汝等諸人の面門より出入す。」

という言葉です。

入矢義高先生の訳では、

「この肉体には無位の真人がいて、常にお前たちの顔から出たり入ったりしている」というのであります。

無位の真人という素晴らしい自己に目覚めるのが臨済の教えなのです。

蔭凉館というのは、修行時代の臨済禅師のことを先輩の僧が、この修行僧は将来きっと大木のような人物となって、多くの人のために木陰を作ってあげることが出来るだろうと言った言葉に基づいています。

みんなここで学んで将来大木のような人物となって欲しいという願いなのですと話しました。

栽松館というのは、私もいつも仕事をするところです。

内部には六十の研究室をはじめ各学科課程の共同研究室、資料室、事務室セクションが並び、いわば大学の中枢とも言われるところです。

松を栽えるというのは、黄檗禅師が、すでに木の茂る裏山に新たに松を植えている臨済禅師をみて、その理由を尋ねたことにちなんでいます。

臨済禅師の答えは、「ひとつには美観、ふたつには後輩の手本」と答えました。

桜が咲くと大勢の人が花見に出かけますが、いつも変わらぬ松の翠が注目されることは少ないのです。

しかし、この変わらぬ翠を保つところに素晴らしさがあることを話したのでした。

それからその日の授業が行われたのが返照館でした。

この建物は創立150周年事業の一環で建替えられた校舎であります。

「1階と2階にはそれぞれ大教室があり、講義だけでなく講演会などのイベントにも利用可能。その他中教室、小教室含め16部屋を擁しています。1階の小教室は、廊下側が全面ガラス張りとなっており、教室内は前後にホワイトボードとプロジェクタを設置しているため通常の講義以外にアクティブラーニングやグループワークにも利用しやすい仕様となっています。」

というものです。

私の講義もその大講義室で行われました。

プロジェクタも具わっていますので、心地よく講義ができました。

大学のホームページには、

「返照館という名前の由来は、建学精神の本質ともいえる臨済録の「回光返照」からとられたもので、「外に向かってキョロキョロと探すな。自分の光で自分を照らせ」という臨済の言葉が息づいています。」

と解説されています。

この返照という言葉について深く考察してみました。

臨済録には「回光返照」という言葉として使われています。

「回光返照」とは、入矢先生の『禅語辞典』には

「自らの内なる知慧の光で自らを照明すること。」と解説されています。

「返照」はというと、「夕日の照り返しをいうのが普通であるが、禅では自己に内在する本然の光を外へ輝き出させる意に用いる。」と解説されています。

「君たちが自らの光を内に差し向けて、もう外に求めることをせず、自己の身心はそのまま祖仏と同じであると知って、即座に無事大安楽になる」

と臨済禅師は語っているのです。

そこで自らを照らすことについて、私の絵本『パンダはどこにいる』の話をしたのでした。

やはり文字だけでは学生さん達も退屈してしまいますが、絵本の画を画像で映すと興味を持ってくれます。

「惺々館」というのは、昔瑞巌師彦禅師が毎日自分自身「主人公」と呼んで、自分で「はい」と返事をして更に、「惺々著」(しっかり目が覚めているか)と自問し、自ら「はい!」と答えていたことにちなんだ名前です。

無聖館は図書館のある校舎であります。

達磨大師の「廓然無聖」という言葉からきています。

「からりとしていて聖性すらない」という意味であります。

禅は聖なるものにひれ伏すという教えではなく、むしろ聖なるものを否定することによって、あらゆる存在が聖なるものだと気がつくことを説くのです。

楽道館という名前は唐代の禅僧に伝わった『楽道歌』が元になっています。

学問、芸術、スポーツなどそれぞれ道を好きになり、更に楽しんでほしいという思いが込められています。

新入生というと十八才か十九才であります。

そんな若者たちに、禅の話がどれほど通じたであろうかと思いますが、自分なりに精いっぱいの話をさせてもらったのであります。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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