第1305回「もう一人の自分」

七月二十九日は、松原泰道先生のご命日でありました。

毎年お墓参りに行っています。

例年暑さの厳しい時期なのですが、欠かしたことはありません。

今からもう四十四年前に、先生にお目にかかったのでした。

私はまだ中学生でありました。

その日のことは今も忘れられません。

初めてお目にかかって頂戴した本が『一期一会 禅のこころに学ぶ』という本でありました。

今改めて拝読してみても、豊富な引用に、構成がお見事で、素晴らしい本だと改めて感じ入ります。

その中に通山宗鶴老師のお話が載っています。

このお話を読んで、感激したのでした。

またこのお話について直接おうかがいしたこともございました。

懐かしい『一期一会』から引用してみましょう。

「沼津市原町の松蔭寺に、その頃住職をしておられた通山宗鶴老師に、一人の中学生が質問の手紙を書いた。

その数日前にサンケイ新聞が同寺で修行している少年を紹介したのを読んで感激したのであろう。

「ぼくも、新聞で読んだお寺の友人のように修行したいのです。

同年でありながら、ぼくは感情に激しやすいのです。

すねたり泣いたり、喜んだり怒ったり怨んだりします。こんなぼくでも修行できますか。自分で自分が不安でいやになります。……」。

と、少年らしい苦しみを訴える。

それに対する通山老師の返信の下書きを見せていただいたことがある。

未知の一中学生に返信を書く温かいお心もうれしいが、わたしの驚きは、老師が何度も書き直して、少年にもわかるように熱心に推こうを重ねられた親切さだ。

ここに禅を学ぶには、すべてに細やかに心を配る綿密な態度が大切である事実を知る。

老師の答えは次のとおりだった。

「あなたは、ていねいに身長や体重や健康状態まで詳しく知らせてくれました。

身体が弱くても禅の修行はできます。

昔からの高僧は、みんな金鉄のような健康者とは限っていません。

〝今は身体が弱いから、丈夫になってからにしよう”と考えていたら、禅に限らず何もできません。

朝起きするのもおなじです。寒いから、もう少し暖まってからとか、眠いからあと数分してから・・・・などと考えていたら、いつまでもふとんから出れないでしょう。

起きる時間が来たら、外のことは何も考えずに、元気よくかけ声をかけて飛び起きるのが、あなたの”禅のこころ〟です。

あなたの身体は、身体検査表で見るところでは、決して大きい方ではないようですね。

それなのに、あなたは、〝ぼくは、泣いたり、喜んだり、怒ったり、すねたり”など、ずいぶんたくさんの心を持っていますね。

どれが、ほんとうのあなたの心でしょうか。

そのどれもがみんな、その時その時の一時の心に過ぎないのではありませんか。

そんな一時だけの感情を苦にしなくてもいいのです。

それよりも、”今、ぼくは泣いている”と自分を認めるもう一つの心が、あなたの中にあることに気がついたことがありますか?

“今、ぼくは喜んでいる”と喜んでいる自分を知るもう一人の自分が、あなたの中に秘められている事実を考えたことがありますか。

このもう一つの心(もう一人の自分といってもおなじ)のある事実を身体で学ぼうとするのが、禅の修行です。

だから健康がどうとか、まして頭脳の良い悪いなどには関係はありません。

ほんとうに自分を知り、自分を学びたいとの熱意さえあれば、禅の修行は年齢に関係なく、男女の別なく誰にでもできるのです」

という文章であります。

通山宗鶴老師は、山本玄峰老師のお弟子で、ご立派な老師だったようで、松原先生もご尊敬されている様子でありました。

この手紙の文章を引用されて松原先生は、

「行き届いた親切な言葉が一字一字にこめられている。

これでも中学生にはむつかしいかもしれないが、これ以上やさしく表現はできないであろう。

何べんも繰り返し読むなら、中学生の知識でいつかはわかるであろう。

大人が読んでも、かゆいところに手の届く教えで、うれしいではないか。」と書かれています。

思えば私もまた中学生の時に松原先生に手紙を出してお目にかかることができたのでした。

見ず知らずの中学生にもていねいに返事を書いてくださり、お時間まで作ってくださったご親切に、今も頭が下がるのであります。

松原先生は、よく「坐禅」の「坐」の一字を説明なされていました。

「坐」という字は、土の上に人をふたつ並べて書くのです。

松原先生は、「土の上に二人が対面している字形は何を意味するか。

一人は感情のままに揺れる自我、一人はこの自我を見すえるもう一人の自己で、ともに自分の二つのはたらきが、絵のように示されている。

わたしは、それを“自分の中にいるもう一人の自分との対話〟という。

坐る (坐禅) とは、自我と自己の対話に外ならない。

よく他者との断絶を嘆くが、それ以上に大切なのは、自我と自己との二人の自分の対話の断絶である。

二人の自分との対話量の多い人の人生は豊かだし、そうでない人の人生は貧しいといえよう。

二人の自分の対話によって、わたし達は自分の人生を価値あるものに形成できるのだ。」

と書かれています。

八木重吉の詩を教わったのも、松原先生からでありました。

「八木重吉の詩に、
わたしのまちがいだった
わたしのまちがいだった
こうして 草に坐れば
それがわかる

がある。

人間の根源的な過ちは腰をかけていてはわからぬ。

大地に草を敷いて坐ってみないと気づかぬものがある。

家具に限らず地位やポストの腰かけからおりて、正しく坐り自分に出あう時間を確保しないと、人間は自滅してしまうであろう。

そこで、わたし達はこう呼びかける。

一日一度は静かに坐って、身体とこころと呼吸を調えようと。」

わずかな文章でも実に内容が深いものです。

ご命日にあたって、先生の著作を読み返すのはありがたいものです。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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