第1296回「広島の仏通寺へ」

臨済宗はただいま十四派に分かれています。

京都には七つの本山があります。

大徳寺、妙心寺、建仁寺、南禅寺、天龍寺、東福寺、相国寺の七つの派の本山です。

鎌倉には建長寺、円覚寺の二つの本山があります。

他に地方に五つの本山があります。

山梨県の向嶽寺、静岡浜松の方広寺、滋賀県の永源寺、富山の国泰寺、そして広島の仏通寺であります。

私も各本山にお参りしたことがありますが、富山の国泰寺さまと広島の仏通寺さまには今までご縁がありませんでした。

このたび仏通寺の夏季講座に招かれて、お参りするご縁ができたのでした。

仏通寺とはどんなお寺なのか、『禅学大辞典』で調べてみました。

「 臨済宗佛通寺派の大本山。山号御許山。

広島県三原市高坂町にある。

臨済宗十四本山の一。

応永四年(一三九七)一〇月五日、小早川美作守春平の創建にして、愚中周及(勅諡号、佛徳大通禅師)を開山に仰ぐ。

愚中は行化の途次にこの地に入り、国主春平に帰依されて一宇を造営し、寺名を嗣法の師、中国の即休契了の号佛通禅師をとって寺名とし、山号を御許と名づけ、師の契了を勧請開山として、自らは二世となった。

開基の春平は寺領四〇〇〇石及び広大な山林を寄付し、ここを殺生禁断の地域とした。

後小松天皇は紫衣の綸旨を賜い、足利将軍は再度にわたって御祈願寺の教書を下し、そののち祈願護国寺と称した。

当時は五〇余宇の塔頭が甍をならべ、末寺も一二州に及び栄えた。

のち永禄三年(一五六〇)小早川隆景により造営されたが、寛政七年(一七九五)の火災により法堂等焼失、文化五年(一八〇八)松平安芸守斉堅が佛殿・方丈・祠堂等を重建し、寺領五〇〇石を寄せた。

明治維新にいたって寺禄・山林の返上などのために一時衰えたが、のち復興した。
本派の独立は明治三八年六月で、本尊は佛殿に安置する開山が、元より将来した華厳会釈迦牟尼如来像である。

法輪蔵には明の崇禎版一切経続蔵並びに続付を収める。

また大通禅師像・大通禅師墨蹟および消息等の寺宝を蔵し、境内は美濃(岐阜県)虎渓山永保寺に類似した風光明媚な景観を擁し、安芸の高野山と呼ばれる。」

と書かれています。

実に素晴らしい由緒のある本山だと分かります。

開山様については『宗学概論』には、

愚中周及 (1323-1409)

日本・南北朝時代の人。元亨3 (1323)年、美濃 (岐阜県)の出身である。

13歳のとき京都に上り、臨川寺で夢窓疎石のもとで出家した。

愚中は夢窓高弟の春屋 妙葩などに教えを受け、暦応4 (1341)年、 19歳のときに元に留学し、浙江省寧波市にある曹源寺の月江正印 (生没年不詳) に参じ、次いで江蘇省鎮江市にある金山寺の即休契了(即休とも。1269-1351) に参じた。

元で修行すること10年、観応2(1351)年に帰国し、同期の留学僧で南禅寺に住した龍山徳見 (1284-1358) の教化を補佐した。

のちに都を離れて山林修行に専念し、丹後 (京都府福知山市)に天寧寺を開いて修行者を指導した。

また応永2 (139) 年に遊行に出て、安芸 (広島県三原市)で小早川氏の帰依を受け、 応永4年、 佛通寺を開創した。

応永16 (1409) 年、87歳で示寂。語録に『仏徳大通禅師語録』(別名『卯余集』)がある。」

と書かれています。

昭和五十年に発行された、大山澄太先生の『仏通寺物語』には、開山さま御遷化のあと、

「それから今日まで、五百五十四年(一九五一年現在)の間、寺としても、領主としても、春風秋雨、種々様々な興亡の歴史が過ぎ去ってゆきましたが、山崎益洲管長で二百五世となられ、法系は脈々として時代の転変の底を流れつつ活きて伝わってきておるのであります。

それらの歴史と伝統をつぶさに物語る資料も佛通寺に無いではありませんが、それはわれわれにとって、また今後の佛通寺の道において、あまり重大事ではありますまい。

「歌書よりも軍書に悲し吉野山」という句もありますが、為政者の迫害と、廃佛運動のために、その昔は、末寺三千六百余を数えた佛通寺が、現在ではわずかに五十余を数えるのみであります。しかし、寺や僧の多寡によって、法の軽重を量るわけにはゆきません。

一時は後小松院の綸旨によって、京都五山の一つである南禅寺と同格に遇せられていましたが、衰微の後は、久しく天龍寺派に属していました。

ところが、明治三十八年、香川寛量老師のご苦心によって、佛通寺派として大本山に復元し、次の円山雪庭老師のお徳によって、寺領などよく整い、さらに、山崎益洲管長の代になって、専門道場が再建せられるなど、設備も完備する一方、首座藤井虎山師(現管長)の大衆指導もまた綿密なるものあり、内外一致して、道場としての規矩整然として、「昼夜禅誦すること、金山の規矩と同じ」のごとく、十余人の雲水が現在なお、ご覧のとおり修行に専念しておられるのであります。」

と書かれています。

愚中禅師が得度された師の夢窓国師は、円覚寺の第十五世であります。

また愚中禅師は、師匠の仏通禅師から、都を離れた山林樹下にあって専一に静地で工夫するように言われていました。

禅師はこの戒めを堅く守って、晩年に時の将軍足利義持に相見を求められた時も、師の教えを守って、都の外で会われたという話であります。

また禅師の頂相は、右手を頭上にかざして、掌で剃った頭に触れているという不思議なお姿なのであります。

これにはいろんな解釈があるそうです。

一つには「羞を識る」ということで、剃った頭に触れて、自分自身が仏弟子として本来の道を見失ってはいないか、と常に己に問いかけていると言われてもいます。

そんな御開山の仏通寺にお参りするのが楽しみであります。

一昨年に広島の福山で講演したことがありましたが、広島での講演は二度目となります。

有り難いご縁であります。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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