第1271回「鎌倉新仏教の祖師たち」

日本の仏教史で、最も仏教が勢いよかったのが鎌倉時代でありましょう。

岩波書店の『仏教辞典』には、「鎌倉仏教」として、

「日本の仏教史の中で鎌倉時代の仏教を特別視するのは近代以降のことである。

特に、禅や浄土系の諸宗、日蓮宗など、この時代に端を発する諸宗や、その祖師の活動を<鎌倉新仏教>と呼んで、日本の仏教史の中でも特別優れたものとして評価することは、戦前から戦後にかけて長い間常識視されてきた。

その特徴として、民衆中心であること、実践方法の単純化、宗教哲学的な深化、政治権力に対して宗教の自立性を主張したことなどが挙げられた。

それに対して、南都北嶺(なんとほくれい)の仏教や真言密教などは旧仏教とされ、新仏教の活動を阻害したり敵対したりする勢力と見なされた。」

と分かりやすく解説されています。

「民衆中心であること、実践方法の単純化、宗教哲学的な深化、政治権力に対して宗教の自立性を主張した」ということは実にその通りであります。

単純化したけれども深化しているというところが特徴でもあります。

それは、法然上人、親鸞聖人、栄西禅師、道元禅師、日蓮聖人、そして一遍上人の六人であります。

法然上人は一一三三年に生まれ一二一二年にお亡くなりになっています。

浄土宗の開祖であります。

法然上人は、美作(岡山県)の生まれです。

漆間(うるま)時国の子でした。

九歳のとき父は夜討に遭いましたが、遺誡により仇討を断念しました。

十三歳で比叡山に登り、十五歳のときに出家しました。

十八歳のとき、西塔の黒谷に隠棲していた慈眼房叡空をたずねて弟子となり、法然坊源空と名を改めました。

それからというもの実に二五年もの間叡空について修行を積みました。

四十三歳のとき、黒谷の経蔵で善導著『観無量寿経疏』散善義の「一心専念弥陀名号」の文により心眼を開きました。

そこで、専修念仏に帰依したのでした。

まもなく叡山を下り、東山吉水(大谷)においてあらゆる階層の人々に浄土念仏の教えを説いたのでした。

その法然上人を訪ねたのが親鸞聖人でした。

親鸞聖人は、一一七三年のお生れですから、法然上人よりは、四〇歳もお若いのです。

一二六二年にお亡くなりになっていますので、九十歳と長命でした。

浄土真宗の開祖であります。

九歳で出家し比叡山にのぼりました。

比叡山では常行三昧堂の堂僧を勤めていたといわれています。

しかしそこでの二十年間の修行は悩みを解決してくれず、二十九歳(1201)で、六角堂に参籠し、聖徳太子の示現を得て吉水に法然上人をたずねました。

自力雑行(ぞうぎょう)を棄てて他力本願に回心したのでした。

法然上人から『選択(せんちゃく)本願念仏集』を授かります。

そのころ、親鸞と改名したようです。

一二〇七年、念仏弾圧で還俗(げんぞく)して越後(新潟県)に流されたのでした。

それからは非僧非俗を貫き、愚禿と称しました。

一二一一年(建暦1)赦免され、更に家族とともに常陸(茨城県)に移住しました。

京都に帰るまで約二〇年間、関東各地で布教したのでした。

六二,三歳のころ、ようやく京都に帰りました。

お二人が経験されたのが、「承元の法難(じょうげんのほうなん)」でした。

一二〇七年(建永二年、承元元年)後鳥羽上皇によって法然上人及び親鸞聖人らが流罪とされた事件です。

法然上人は、土佐国番田(現、高知県)へ、親鸞聖人は越後国国府(現、新潟県)へ配流されたのでした。 

この時、法然上人も親鸞聖人も僧籍を剥奪されました。

そんな苦難があったのでした。

お二方は念仏の教えを弘められた方でした。

禅も鎌倉時代に興りました。

なんといっても栄西禅師と道元禅師であります。

栄西禅師は臨済宗を、道元禅師は曹洞宗を伝えたのでした。

栄西禅師は一一四一年にお生れで一二一五年にお亡くなりになっています。

日本に於ける臨済宗の祖であります。

そして鎌倉幕府の帰依を受けた最初の禅僧でもあります。

道号は明庵、葉上房、千光法師ともよばれます。

備中(岡山県)吉備津神社の社司賀陽氏の出でです。

比叡山で台密を学びますが、二八歳で五カ月の間、そして更に四七歳で五年の間、なんと二度にわたって宋に入って学びました。

天台山に巡礼し、虚庵懐敞(きあんえしょう)より臨済宗黄竜派の禅と戒を受けて帰国したのでした。

帰朝後、京都で教外別伝の禅を説く日本達磨宗の大日能忍とともに比叡山の弾圧をうけて布教の停止を言い渡されてしまいます。

しかし『興禅護国論』を上進して仏法の総府、諸教の極意としての禅宗の立場を弁明しました。

鎌倉幕府の帰依で、鎌倉に寿福寺を建て、更に京の都に建仁寺を開創しました。

東大寺再建の大勧進となるなど、広く日本仏教の中興につとめた方であります。

道元禅師は一二〇〇年のお生れで一二五三年にお亡くなりになっています。

日本曹洞宗の開祖です。

道元禅師は八歳で母を亡くしています。

一三歳のとき比叡山にのぼり、翌年座主公円について得度しました。

のち三井寺(園城寺(おんじょうじ))に公胤をたずね、そのすすめで建仁寺に入って学びます。

栄西禅師がお亡くなりになった後は、栄西禅師の高弟明全禅師に師事しました。

一二二三年明全禅師とともに入宋しました。

如浄禅師に参じて一二二五年、如浄禅師の「身心脱落」の語を聞いて得悟したことで知られています。

宇治に興聖寺を開いていたのですが、その頃比叡山から弾圧を受けています。

そして越前に永平寺を開いているのです。

日蓮聖人は一二二二年のお生れで一二八二年にお亡くなりになっています。

日蓮宗の開祖です。

安房国(千葉県安房郡)小湊に漁夫の子として生れました。

一二歳のとき清澄寺(きよすみでら)にあずけられ、一六歳で出家しました。

その後、鎌倉遊学を経て、ついで比叡山に学びました。

この間に天台教学のみならず、密教・浄土教など広く学んでいます。

そして法華経中心の信仰を確立するに至りました。

三十二歳のとき故郷に帰りました。

このとき清澄寺で<南無妙法蓮華経>と唱えたとされています。

法然の浄土念仏に批判を加えたことがもとで故郷を追われ、鎌倉に来て布教を開始しました。

法華信仰の確立を訴えて、『立正安国論』を三十九歳の時に著しています。

日蓮聖人は文永八年竜の口の法難の直後、佐渡へ流刑に処せられています。

最後は一遍上人です。

一遍上人は一二三九年のお生れで一二八九年にお亡くなりになっています。

時宗の祖師です。

伊予(愛媛県)の出身で、はじめ天台を学び、のちに太宰府で証空の弟子の聖達(しょうたつ)について浄土念仏を習いました。

証空は法然上人の門下です。

三十三歳のとき、信濃の善光寺に詣でて二河白道(にがびゃくどう)の図を写し、故郷に帰って三年間、それを本尊として念仏に励みました。

三十六歳のとき、四天王寺・高野山を経て熊野に参籠し、熊野本宮の神からご神託を得ます。

「南無阿弥陀仏(決定往生六十万人)」と書いた念仏札を配り、賦算して全国を巡歴遊行したのでした。

大きく分けると法然上人、親鸞聖人、一遍上人の念仏の教えと、日蓮聖人の題目の教えと、栄西禅師と道元禅師の禅の教えの三つになります。

それぞれ旧仏教からの厳しい弾圧などに耐えながら、多くの民衆に仏法を弘められたのでした。

苦しい時代に、その人たちと共に苦労しながら、仏教を新たに復興させた祖師達であります。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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