第1222回「達磨さんの逸話」

花園大学での今年度禅とこころの講義は、禅僧の逸話に学ぶと題して行います。

まず第一回が先日行われました。

逸話というのは「ある人についての、世人にあまり知られていない、興味ある話。エピソード」です。

第一回は、達磨大師の話をしました。

達磨大師ほど、多くの人に知られている祖師はいないと思います。

小さな子どもでもダルマさんといえば、聞いたことがあるでしょう。

達磨を『広辞苑』で調べてみると、

「①菩提達摩。禅宗の始祖。

南インドのバラモンに生まれ、般若多羅に学ぶ。中国に渡って梁の武帝との問答を経て、嵩山の少林寺に入り、九年間面壁坐禅したという。

その伝には伝説的要素が多い。その教えは弟子の慧可に伝えられた。

諡号は円覚大師・達磨大師。達摩。(~530?)

②達磨大師の坐禅した姿に模した張子の玩具。

普通、顔面以外の部分を赤く塗り、底を重くして、倒してもすぐ真直に立つように作る。

開運の縁起物とし、願いごとがかなった時に目玉を描き入れるならわしがある。不倒翁。」

と解説があります。

この二番の張子の達磨はよく知られています。

いろんなところで目にするものです。

「その伝には伝説的要素が多い」というように、実際には分からないことが多いのです。

百五十歳まで生きたとも言われていますが、これもよく分かってはいません。

毒を盛られたという話もありますが、お亡くなりになった後の伝説もございます。

「隻履帰天」と言います。

禅文化研究所の『日本にのこる達磨伝説』には、次のように書かれています。

「達磨が遷化してから三年、宋雲という人物が、北魏の帝の命で使者として西域に赴いた。

使命を果たして帰国の途次、葱嶺(パミール高原)で、片方の履のみを携えて独り歩む達磨に出会った。

宋雲は驚いて問いかける。

「師よ、どこに行かれる」

すると達磨は答えた。

「天竺に帰るのだ」

達磨はさらに宋雲に告げた。

「あなたの主君はすでに崩御された」

宋雲は茫然となりながらも北魏に帰り、事の次第を新帝に奏上した。

帝が達磨の墓を開かせたところ、中は空っぽで、ただ片方の履のみが残されていた。

帝は詔を下し、その履を少林寺で供養した。」

というのであります。

その達磨大師が日本に来ていたという話もあります。

聖徳太子が片岡山で達磨大師に出会ったというのです。

聖徳太子が。片岡に行っていると道の辺に、横たわっている旅人がいました。

名前を聞いても答えません。

聖徳太子は、その旅人をご覧になって食べ物を与えました。

さらに衣服を脱いで、その飢えた旅人に与えて、「安らかに寝てなさい」と告げました。

そして次の和歌を詠いました。

しなてる 片岡山に
飯に飢て 臥(こや)せる
その旅人あはれ
親無しに汝生りけめや
さす竹の 君はや無き
飯に飢えて 
臥(こや)せる
その旅人あはれ

これは『日本書紀』にあります。

『日本にのこる達磨伝説』では、次のように訳されています。

「片岡山に、飯に飢えて臥せっている旅人は憐れだ。

お前は親なしに生まれて来たのか、そんなはずはあるまい。お前には主君はいないのか、そんなはずはあるまい。

飯に飢えて臥せっている旅人は、憐れなことだ。」

という和歌なのです。

翌日、聖徳太子が使者を遣わしてその人を見に行かせました。

その旅人はすでに亡くなっていました。

そのことを聖徳太子に伝えると、太子は大いに悲しんで、飢人の遺体をその場所に埋葬して墓を建てました。

数日後に聖徳太子は、近習の者に「過日埋葬した人は普通の人ではない。きっと真人、ひじりにちがいない」と言いました。

そして墓を見に行かせたところ、なんと棺を開いてみると屍も骨もなかったというのです。

ただ棺の上に衣服だけがたたんで置いていたというのでした。

聖徳太子は再び使者を遣わして、自分がかつて与えたその衣服を持ち帰らせ、以前のように身に着けました。

人々は大変不思議に思い、「聖(ひじり)は聖を知るというのは、真実だ」と思ったという話なのです。

これが達磨大師だったというのです。

また更に達磨大師が生まれ変わって栄西禅師になったという伝説もあるのです。

『正法輪蔵』という書物に、

「達磨遷化の後五百六十二に相当たって、人皇八二代鳥羽院の御時、達摩は再誕し給いて、葉上僧正と云われ給いて、一院の御勅願として、建仁二年(一二〇二)、洛陽の東に大伽藍を建立し給えり。」

という記述があるそうです。

達磨大師がお亡くなりになって五六二年後に、栄西禅師となってうまれたというのです。

栄西禅師は一一四一年のおうまれですから、さかのぼると五七九年にお亡くなりになっていることになります。

達磨大師が馬になっていたという話もあるのです。

こちらも『正法輪蔵』の話で、

聖徳太子の母である間人皇女(はしひとのひめみこ)が宮中を巡回中、厩の戸に触れたときに、太子が誕生したと書かれているそうです。

そこで厩戸皇子と命名されたとのことです。

間人皇女が宮中の厩の前を通られた時に、厩で飼われていた馬が三度嘶いたというのです。

その馬が達磨大師の化身だったというのです。

この馬が三度嘶いたのは、帰依仏、帰依法、帰依僧の三帰依を唱えたということです。

今や達磨大師は張子のだるまさんにまでなって到るところに姿を現わしています。

達磨大師の言葉に、

「吾もと茲の土に来たる、法を伝えて迷情を救う」とあります。

法を伝えて迷える人を導くために到るところに身を現わしているのです。

実に逸話の多い方でいらっしゃいます。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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