第1307回「地道な精進努力」

七月の末、松原泰道先生のご命日にお墓参りをし、先生のお寺である龍源寺にお参りして、そのまま岩手に向かいました。

龍源寺を初めて訪ねたのは中学生でしたが、今もお参りするとその頃を思い出して懐かしい思いがします。

寺の掲示板は、昔からの黒板にチョークで書かれています。

花はなぜ美しいか ひとすじの気持ちで咲いているからだ

という八木重吉の詩が書かれていました。

松原先生もご生前よく引用されていた詩であります。

本堂にお参りして、読経をし礼拝して、長年の御恩に感謝します。

そのあと東京駅に向かい、東北新幹線で岩手に向かいます。

その日の都内の暑さは厳しく、また東京駅は大勢の人でありました。

新幹線の乗り場にゆくだけでも疲れてしまうほどです。

どうにか新幹線に乗って水沢江刺に向かいました。

岩手県の水沢にあるお寺の葬儀に出る爲でありました。

お寺の和尚がお亡くなりになるとまず密葬を行います。

地元の和尚様方のみで、葬儀を行って火葬します。

それから少し間をあけて、津送を行います。

密葬に対する本葬のようなものです。

お寺では津送というのです。

津送の「津」という字は、「水のうるおす所、浅瀬の船着き場、渡し場」という意味です。

そこから津送は、人の死出を送るという意味であります。

また和尚がお亡くなりになることを「遷化」といいます。

人々を教化する場所を遷すという意味であります。

松原先生が、遺詞として「私が死ぬ今日の日は、私が彼の土でする説法の第一日です」という言葉を残されたのはまさに教化の場を遷すことを表しています。

津送のときには、本山の管長か、その地元の僧堂の老師か、あるいはその和尚が修行された僧堂の老師を導師にお願いして行うことが多いものです。

今回水沢のお寺の和尚さまは、円覚寺で修行された方だったので、私が導師を務めることになったのでした。

水沢江刺の駅に降りるとその涼しいことに感激しました。

かなりの気温差があると感じました。

水沢の町で、「あてるい」の名のついた看板を見かけました。

アテルイは、『広辞苑』には、

「平安初期、北上川流域を支配した蝦夷(えみし)の族長。

789年朝廷軍を破る。

802年征夷大将軍坂上田村麻呂に降り、河内国杜山で斬殺された。(- -~802)」

と解説されています。

坂上田村麻呂は「平安初期の武人。

征夷大将軍となり、蝦夷(えみし)征討に大功があった。 正三位大納言に昇る。 また、京都の清水寺を建立。 (758~811)」

と書かれています。

古代奥羽から北海道にかけて住んでいて、言語や風俗を異にして中央政権には服従しなかった人々を蝦夷とかえみしと言っています。

この蝦夷討伐のために派遣された将軍が征夷大将軍であります。

坂上田村麻呂が初代で、それから鎌倉、室町、江戸の幕府では武家政権の首長を征夷大将軍と呼ぶようになっています。

実に古い歴史のある町なのであります。

津送の日、お寺につくと、地元の和尚様方やお檀家の総代、役員さんたちのお出迎えをいただきます。

そうして控え室に通されます。

控え室には朝比奈宗源老師の書で「自信教人信」と書かれていました。

ため書きには、お亡くなりになった和尚が書かれています。

おそらくお寺の住職になったころにいただかれたものだと察します。

これは、禅語ではなく、浄土真宗の言葉です。

浄土真宗では、「みづから信じ、人を教へて信ぜしむること」と解説されるようです。

「教」という字は、使役を表す助動詞だと思うので、「自ら信じ、人をして信じせしむ」ということではないかと察します。

中国の高僧善導大師の言葉で、親鸞聖人はこの言葉を『教行信証』の中で引用されています。

自ら仏法を信じて人にも信じさせるように努めることを表しています。

浄土真宗ではよく使われる言葉ですが、朝比奈老師が書かれるとは珍しいと思って拝見していました。

津送の儀式は二時間ほどかかります。

私はふだん円覚寺にいますので、円覚寺の儀式作法にはなれていますが、他派のお寺であると、その派の作法もあり、またその地方の慣習もありますので、いろいろと戸惑うこともございます。

それでもありがたいことに岩手県のお寺出身の修行僧が、道中のお供をしてくれて、また円覚寺で修行して今岩手県のお寺の住職をしている和尚が、先方でいろいろとお世話をしてくださいましたので、どうにか大役を務めることができました。

ちょうど昨年岩手県のお寺の和尚の晋山式に訪れて、一年ぶりの岩手となりました。

そのときにも感じたのですが、地元のお寺の和尚様方の熱心なことと、その教化を受けている檀信徒の皆様も信心の篤いことであります。

お亡くなりになった和尚は、円覚寺で朝比奈宗源老師のもとで修行された方です。

私が修行時代には、朝比奈老師のご命日に、朝比奈老師のもとで修行された和尚様方がお集まりになって僧堂で読経して法要を行っていました。

朝比奈老師は八月二十五日が、ご命日なので、毎年暑い日でありました。

今回お亡くなりになった和尚さまも、遠く岩手の水沢から毎年お参りくださっていました。

朝比奈老師のご命日の法要は、その後、僧堂の代々の老師方を合同でご供養するようになって、十一月に行うことにしていました。

その法要にも遠くからお見えくださっていました。

何度かお話させてもらったことがありますが、朝比奈老師への尊崇の念がとても篤い方だと感じました。

また今回お寺の訪ねて、その由緒、たたずまい、どれもご立派であることに感服しました。

これだけのお寺を護持するだけでもたいへんなご苦労であります。

また和尚は生前布教師としてもご活躍なされていました。

私などは「布教師」と聞くだけで敬意を表します。

やはり布教するには、話すことの何倍もの勉強をしないといけません。

それだけでも頭が下がる思いがします。

地道な精進努力によって、お寺が守られてきているのだと改めて感じました。

そして自分自身もなお一層努力精進しなければと思ったのでした。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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