第1243回「運」

運が良い、運が悪い、そんなことを感じる場合があります。

その運というのは、そもそもどんなものでしょうか。

例の如く『広辞苑』で調べてみます。

「運」には「①天命」という意味があります。

方丈記の「おのづから短き運をさとりぬ」という用例があります。

天命というと、「①天の命令。上帝の命令。

②天によって定められた人の宿命。天運。

③天から与えられた寿命。天寿。」

という意味があります。

それから「運」には、

「②めぐってくる吉凶の現象。幸・不幸、世の中の動きなどを支配する、人知・人力の及ばないなりゆき。まわりあわせ。」

という意味があります。

これがよく使う「運が悪い」の運であります。

それに「③特に、よいめぐりあわせ。幸運。」があります。

「運が向いてくる」という用例があります。

運にまつわる言葉もいろいろあります。

運が開く
運の尽き
運は天にあり
運を試す
運を天に任せる

などなどが『広辞苑』に出ています。

「運が開く」は、「あるきっかけから、運が好い方に向く」ことです。

「運は天にあり」とは「運は天にあって、人力ではどうすることもできない。」という意味です。

「運を試す」は、「運がいいか悪いか、試しにやってみる」こと。

「運を天に任せる」というと、「成行きにまかせる」という意味であります。

「運の尽き」となると「運命の終り。滅びる時の来たこと」となってしまいます。

妙心寺の山川宗玄老師の晋山式で、老師が法堂に御入堂になって、まず第一声あげられたのは「人間万事塞翁が馬」という言葉でした。

ある人が飼っていた馬が逃げてしまい、となりの国に行ってしまいました。

人々は皆これを気の毒に思ってなぐさめました。

ある占いに精通していた老人は

「これがどうして幸福にならないと言えようか、いや、きっとなる。」と言いました。

数ヶ月たって、その馬がとなりの胡の駿馬を連れて帰ってきました。

すると、人々は皆これを祝福してくれました。

しかし、その老人が言うことには、

「これがどうして禍となることがありえないだろうか、いや、きっとなる。」と言いました。

その老人の家には、良い馬が増えました。

するとその老人の息子は乗馬を好きになって乗馬中に落馬して太ももの骨を折ってしまいました。

人々はこれを見舞いました。

しかし、
「これがどうして幸福にならないと言えようか、いや、きっとなる。」と言いました。

それから一年が経ち、胡の人が大軍で砦に攻めてきました。

体の丈夫な若者は、弓を引いて戦いましたが、砦の近くの人で、死者は10人中9人になりました。

この老人の息子だけは足が不自由なことが理由で、父子ともに無事でした。

人生はどうなるのか分かりません。

こういうのも運というのかも知れません。

この老人の息子にとって幸運だったことが、他の人にとっては不運となっていることもあるでしょう。

野球というスポーツも運がいいとか、悪いとかあるように感じてしまいます。

栗山英樹監督の『信じ切る力』にも

「野球は運が左右するところがあるのは、事実です。

例えば、本当は低めにフォークボールをワンバウンドで投げようとしたのに、高めに抜けてしまった。

ところが、バッターもそれを想像していなかったので、ストライクになって見逃し三振になった。

これこそ、たしかに運ですが、僕はその運をコントロールしたいと思いました。

コントロールできないかもしれないけれど、選手のためになんとかしてあげたいと思ったのです。

運さえもコントロールできるほどの努力をすればいいのではないか。

運さえもコントロールできるほどの生き方はできないものか。

運が左右される要因を見つけなければいけないと思ったのです。」

という言葉があります。

「運さえもコントロールできるほどの努力をすればいいのではないか。」という言葉に感銘を受けて、対談の折にも紹介したものでした。

運を左右する要因というのは何でしょうか。

これも栗山監督の『信じ切る力』には、

「神様が手伝ってくれるところまで、やり切ったのか、と問うてみるべきだと思うのです。

求められていることは、そんなに難しいことではありません。

昔、おばあちゃんが言っていたような「嘘をつかない」「人を思いやる」 「苦しくなっても、誰かのために頑張る」でいい。

すごくシンプルな、人間として当たり前のことです。

でも、これをみんなが守ったら、きっとみんながもっと前に進めると思うのです。」と書かれています。

「運鈍根」という言葉もあることを思い出しました。

こちらも『広辞苑』に載っています。

「好運と愚直と根気。

事を成しとげるのに必要な3条件としてあげられる。」と解説されています。

運を幸運と解釈されていますが、必ずしも幸運だけとも限らないでしょう。

不運や逆境の中から道を切り開いてきた方もいらっしゃるものです。

どのように切り開くかというと、それが「鈍」と「根」、即ち愚直と根気だというのです。

「鈍」というのは『広辞苑』では、

「①刃物の切れあじが悪いこと。

②にぶいこと。のろいこと。

③つまらないこと。ばかげていること」

という否定的な意味が書かれています。

「愚鈍」というと、「頭の働きが悪く、することもまがぬけていること。のろま」という意味が書かれていて、よい意味ではないようです。

「愚直」も「正直すぎて気のきかないこと」とされています。

しかし、禅で使う「愚」というのは、悪い意味ではありません。

禅では「その智や及ぶべし、その愚や及ぶべからず」という『論語』の言葉もあって、高い次元でつかうことが多いのです。

『論語』に「仁者は其の言や訒」という言葉があります。

「訒」というのは「口のきき方が重々しく、言いよどみがちなさま」を言います。

禅の語録にも出てくる禅問答にしても、何も丁々発止の如く、すぐに答えがでるだけがいいのではありません。

宝峰の元首座という方は、口を開いて何か言おうとして、五斗のお米を炊いて炊き上がった頃になってようやく答えが出たというのです。

私も修行道場で修行していた頃に、先代の管長から「閑古錐」という言葉をいただいていました。

閑古錐は、『禅学大辞典』には「閑はしずかなの意。

古錐は古いきり。世事俗情にひきまわされない悠悠たる真の道者。真実の佛者に対する尊称。 閑道人」という解説があります。

尖った錐ではなく、すり減ってしまったような錐になるようにと諭されました。

今思うと有り難いお言葉です。

そうして根気よくコツコツ努力してゆくことしかないのであります。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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