第1237回「煩悩を消したら…」

毎日新聞の川柳の欄に先月の末頃、

「煩悩を消したら僕も消えちゃった」

という句がありました。

私も、いくら坐禅しても雑念も妄想も消えませんという方に、雑念や妄想が消えたら、あなたもなくなってしまうのではありませんかと申し上げることがあります。

では「煩悩」とはそもそも何でしょうか。

まず『広辞苑』を調べてみると、

仏教語として「衆生の心身をわずらわし悩ませる一切の心理作用。

貪・瞋・痴・慢・疑・見を根本とするが、その種類は多く、「百八煩悩」「八万四千の煩悩」などといわれる。

「貪・瞋・痴・慢・疑・見」が六煩悩と言われています。

はじめの貪瞋癡は三毒とも言って、煩悩の根本です。

慢は慢心、疑は文字通り疑い、見はあやまった見解です。

「煩悩の犬は追えども去らず」という言葉があって、

「煩悩は人につきまとう犬のようで、いくら追い払ってもすぐ戻ってきて、取り去ることはむずかしい」という意味です。

岩波書店の『仏教辞典』で詳しく調べてみます。

煩悩は「身心を乱し悩ませる汚れた心的活動の総称。

輪廻転生をもたらす業(ごう)を引き起こすことによって、業とともに、衆生を苦しみに満ちた迷いの世界に繋ぎ止めておく原因となるものである。

外面に現れた行為(業)よりは、むしろその動機となる内面の惑(わく)(煩悩)を重視するのが仏教の特徴であり、それゆえ伝統的な仏教における実践の主眼は、業そのものよりは煩悩を除くこと(断惑)に向けられている。」

と解説されています。

更に「初期仏教」では「阿含経典では、随眠(ずいめん)・漏(ろ)・取(しゅ)・縛(ばく)・結(けつ)・使(し)などさまざまな呼称のもとに、煩悩に相当する種々の要素が挙げられているが、それらの中で代表的なものは<貪>(貪欲。むさぼり)、<瞋>(瞋恚。にくしみ)、<癡>(愚癡・無知)のいわゆる三毒(さんどく)である。

四諦説の枠組みのなかでは、飽くことを知らない欲望(渇愛(かつあい))、即ち貪が人生苦をもたらす根源であるとされる。

十二支縁起(十二因縁)説においても、渇愛は生死の苦しみをもたらす原因として重視されるが、そのさらに根源には、仏教の道理に対する無知(無明)、即ち癡があるとされるのである」

と説かれています。

更に「部派仏教」では

「説一切有部のアビダルマ(阿毘達磨(あびだつま))では、煩悩を根本煩悩と随煩悩に大別する。

<根本煩悩>とは、諸煩悩中特に根本的とされる貪・瞋・慢・疑・無明(癡)・(悪)見の六随眠を指す。」

とあって、そこから更に詳しく百八の煩悩が説明されています。

「大乗仏教」では

「このように、多くの煩悩を数え、それらを断ずることによって輪廻から解放されようとするのが、初期仏教以来の仏教の基本的立場であったが、大乗仏教になると、煩悩を実体視して迷いの世界と悟りの世界とを峻別する考え方そのものが空の立場から問い直されるようになり、<煩悩即菩提><生死即涅槃>などの考え方が前面に打ち出されるようになった。」

と解説されています。

そして「こういった考え方は、迷いの世界から隔絶されたところに真理の世界を求めるのではなく、迷いの世界のただ中で衆生とともに働き続けるところに真理の世界を見出そうとする菩薩思想と密接な関係があり、瑜伽行派の無住処涅槃(無住)の説も、この関連で理解されるべきものである。」

と説かれています。

「迷いの世界から隔絶されたところに真理の世界を求めるのではなく、迷いの世界のただ中で衆生とともに働き続けるところに真理の世界を見出そうとする」というのは、まさに大乗仏教の精神そのものです。

禅でもこの「迷いの世界のただ中で衆生とともに働き続ける」ことを重視しています。

更に『仏教辞典』には、

「一方、衆生の心は本来光り輝く清らかなものであり、それを汚している煩悩は副次的なものに過ぎない(心性本浄 客塵煩悩)のだから、煩悩の穢れを除くことによって心は本来の清浄性を回復することができるのだという思想は、一部の阿含経典以来存していたのであるが、如来蔵思想に至って、特に重視されるようになったものである。」

と解説があります。

六祖壇経に五祖のお弟子の神秀が作ったという偈があります。

身は是れ菩提樹、

心は明鏡の台のごとし。

時時に勤めて払拭して

塵埃に染(けが)さしむること莫れ。

というものです。

これは心の本性は鏡のように清らかなもので、塵やほこりのように煩悩がついてしまわないように、心の鏡を常に磨いていなさいという意味なのです。

それに対して六祖となった慧能は、

菩提は本より樹無し、

明鏡も亦た台に非ず。

本来無一物(むいちもつ)

何(いず)れの処にか塵埃有らん。

と詠いました。

「悟りにはもともと樹はない。澄んだ鏡もまた台ではない。
本来からりとして何もないのだ、どこに塵や埃があろうか。」

という意味であります。

『仏教辞典』に

「中国・日本においても、断惑の思想よりは、むしろ煩悩即菩提の思想が重視された。<不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)>を説く親鸞の思想は、その一つの典型例を示したものといえるであろう。」

と説かれているように「煩悩即菩提」と説くようになりました。

『広辞苑』に「煩悩即菩提」とは、
「相反する煩悩と菩提(悟り)とが、究極においては一つであること。煩悩と菩提の二元対立的な考えを超越すること。大乗仏教で説く。」とある通りであります。

昔の人は、「渋柿の渋そのままの甘さかな」と詠いました。

そうかといって、決して煩悩をそのままにしていいというわけではなく、四弘誓願文に「煩悩無尽誓願断」とあるように煩悩に振り回されないように精進することは必要なのです。

煩悩は無尽ですから、煩悩を消してしまって私も消えてしまう心配はないのであります。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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