第1257回「ごみはない」

今まで多くのすぐれた禅僧たちにお目にかかってきました。

山田無文老師や大森曹玄老師にもご生前お目にかかることができました。

ただお二方とも、私がお目にかかった頃には、既に第一線を退かれた頃でありました。

それでも、その風貌に接し得たことだけでも、我が人生の宝であると思っています。

それから、親しくお話を承ることができたのは、盛永宗興老師でありました。

今までにお目にかかった老師方の中でも特に印象に残っています。

佐々木閑先生も花園大学にお務めになられた頃の学長は、盛永老師だったそうです。

入学式や卒業式でお話なされる内容が素晴らしく、そんな老師のお話、お姿に触れて花園大学にはいってよかったと思ったとお話くださいました。

私がはじめて盛永老師にお目にかかったのは、京都の建仁寺で修行していた頃でありました。

老師が住職しておられた大珠院で老師の提唱を拝聴したのでした。

ちょうど修行道場でお休みをもらえた日で、先輩の修行僧が盛永老師のもとで修行していた方だったので、連れていってくれたのでした。

老師が『碧巌録』を提唱なさるのを拝聴して、親しく茶礼させてもらったのでした。

それから都内で講演を拝聴したこともあります。

その時には円覚寺の修行僧でありました。

建仁寺に居た頃にお目にかかり、更に円覚寺の修行僧としてお目にかかったのでした。

ただいま円覚寺にいますと申し上げると、いろいろとお話くださったのでした。

老師は後藤瑞巌老師のお弟子でいらっしゃいます。

瑞巌老師という方は釈宗活老師のお弟子であります。

宗活老師は、円覚寺の釈宗演老師のお弟子なのであります。

そんなご縁もあるのでした。

はじめて老師のお話をうかがったおりに、「ごみはない」という話が今も心に残っています。

老師の講演を集めた著書『盛永宗興老師法話集 無生死の道』(柏樹社)から引用します。

講演録ですので、老師の口調のまま書かれています。

長いのですが、そのまま参照します。

老師が、後藤瑞巌老師に入門される頃の話であります。

「瑞巌老師が最初にいわれたことは、「お前はなぜ、ここへやってきたのか」ということでした。

私はそれに対して、約一時間半にわたり、これまでのいきさつと現在の心境をくどくどと話しました。

その間、老師はひとことも口をさしはさまず黙って聞いておられ、いちおう私の話が終わったところで、

「いま、お前のいうことを聞いておると、現在のお前は何ものも信じられない、という心境のようだ。

しかし、修行というものは、師匠を信ずるということなしには成り立たない。お前はわしを信ずることができるか。

もし、信ずることができるのならば、このまま、ここで修行の相手をしてやる。

信ずることができなければ、この場にとどまっておっても時間の無駄だからさっさと帰れ」

といわれました。

いま、わが国の社会では、修行のうえであれ、学問のうえであれ、ものを学んでいくうえで、師匠を信ずるということが絶対不可欠であるということを忘れてしまっているように思いますが、瑞巌老師はまずこのことを強くおっしゃったわけです。

しかし、当時の私は大変なろくでなしでしたから、即座に「はい」といえるほど素直ではありませんでした。

老師は七十歳でしたが、私は腹の中で、

「このくそじじいめ、妙心寺の管長か大徳寺の管長かは知らないが、社会的地位が高くてもろくでもないやつは世の中にはいっぱいいる。いま出会ったばかりの人間を、無条件で信ずることができるほど、信ずることがたやすいことなら、おれはこんなところへのこのこ出てくる前に何かを信じていたはずだ。

簡単に信じられないからこうやってきているのではないか」

と思ったのですが、これをいったら即座に「それじゃ、無駄だから帰れ」といわれるに決まっている。

ここは一番、うそをついても、そばに置いてもらわなくてはなるまいと考えて、

「信じますから、どうぞよろしくお願いします」といいました。

このときの私は、信ずるという言葉の重みを全く知りませんでしたが、その日のうちに、この言葉の重みを思い知らされるはめになりました。

「お前もついてこい」ということで、まず初めにやらされたのは庭掃除でした。

七十歳の老師も一緒に庭へ降り、竹箒で庭掃きを始めました。

禅寺の庭というのは大変具合いよく木が植えられていて、一年中、木の葉が散るようになっております。秋のモミジだけでなく、春でも、カシの木の葉とかクスの木の葉などがどんどん散っています。私がいったのは四月ごろでしたが、庭は落ち葉でいっぱいでした。

人間というものは、というよりは、私の心はまことに卑しく、腹の中では、くそじじいめ、だれが簡単に信じるものかと思いながらも、やはり、認められたいという気持が働き、いざ箒を持つと一生懸命に掃きました。

またたく間に落ち葉の山ができました。

そこで、今度は気のきくところも見てもらいたいと思って、「老師、このゴミ、どこへ捨ててまいりましょうか」といったら、とたんにどなられた。

「ゴミはない」

「ないといったって、ここに」といいかけたら、「お前はわしを信じないのか」ときた。

しかたがないから、「それでは、この落ち葉はどこへ捨ててまいりましょうか」といったら、またどなられた。

「捨てるんじゃない」

「じゃ、どうするんですか」と尋ねますと、

「納屋へいって炭俵の空いたのを持ってこい」といわれる。

老師は一生懸命落ち葉の山をかき上げて、軽い落ち葉が上に、重い石やら砂やらが下へ落ちるようにふるい分け、落ち葉を、納屋から持ってきた炭俵に足でぎゅうぎゅう詰め込んで、最後の一枚まで拾って入れ、「おい、これを納屋へ持っていっておけ。風呂を焚くときの柴じゃ」

私は、落ち葉の俵をかついで納屋へ運びながら、これは確かにゴミではない、しかし、あのまだ残っているものは絶対ゴミだぞ、と腹の中で思った。

戻ってみると、老師はしゃがみこんで、落葉をとった残りの中から小石を拾い出しておられる。

それもていねいに、最後の一粒まで拾って、「おい、これを雨落ちのところへ持っていって並べろ」といわれました。

雨だれで、穴があいているところへ持っていって、前から並べてある砂利と一緒に並べますと、穴もふさがるし、なかなか風情もあります。

なるほど、ゴミではなかった。

しかし、まだある。最後に残った土くれとか、苔の端くれみたいなもの、あれだけはどうしようもないぞと内心思っていた。

ところが、老師はむぞうさにそれをかき集めて手のひらにのせ、地面をすかして見て、へこんだところへ持っていき、それを置いて、足でトントンと踏み締められたら何も残りませんでした。

そして、いわれた。
「おい、どうだ、少しは分かったか。本来、人にも物にもゴミはないのだぞ」

これが瑞巌老師のもとへいって最初に聞かされた説法でした。」

という話です。

老師のお話は重みがあってそれでいて流暢で、人の心に深くしみいるものでした。

修行時代にお目にかかって、老師は、「禅寺の暮らしは枯淡を尊ぶが、この「枯淡」という言葉を英語にするのが難しい、たんに貧しいということではない、いろいろ考えて「シンプル エレガンス」と訳した」とお話くださったこともありました。

修行の暮らしは、貧しい哀れなものではなく、高貴なるものだというほこりを持てと示してくださったのでした。

盛永老師の本を調べていて、老師にお目にかかった日のことを思いおこしました。

今も大学の総長室に行くときには、老師の「一超直入如来地」という墨蹟を拝見しています。

そのたびに老師をしのんでいます。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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