第1205回「仏心の中に」

人は仏心の中に生まれ
仏心の中に生き
仏心の中に息を引き取る

朝比奈宗源老師の『仏心』の中にある言葉です。

仏心というと、仏の心ですから、それは私たちの中にあるように思います。

「仏心」とは、岩波書店の『仏教辞典』には、

「仏の心、大慈悲心をいう。

観無量寿経に「仏心とは大慈悲心是れなり」とある。

わが国では<ほとけごころ>と読んで、大慈悲心、卑近な言い方をすれば、優しい心を意味することがある。

また衆生の心にそなわる仏の心、すなわち仏性を意味することがあり、特に禅宗で重視される。ここから禅宗のことを<仏心宗>ともいう。」

と書かれています。

仏心は私たちの心に具わると説かれています。

仏性とも言うと書かれていますので、仏性とは何か学んでみます。

岩波書店の『仏教辞典』には、「衆生が本来有しているところの、仏の本性にして、かつまた仏となる可能性の意。

<覚性>とも訳される。

<性>と訳されるダーツという語は、置く場所、基盤、土台の意であるが、教義上<種族>(種姓)および<因>と同義とされる。」

「仏性は仏種姓(仏種)すなわち仏の家柄で、その家に生れたものが共通にもっている素性の意ともなる(その所有者が菩薩)。また、将来成長して仏となるべき胎児、(如来蔵)の意味ももつ。」

と解説されています。

もともとお釈迦様がお亡くなりになったあと、仏教では仏はお釈迦様一人で、その他は仏にはなれないという教えでした。

私たちが修行して到達するのは阿羅漢であって、仏ではなかったのです。

ところが大乗仏教になって仏になれると説かれるようになってきたのでした。

仏になれるというのは、仏になる要因が内在しているからだと説くようになったのでした。

それが「一切衆生悉有仏性」という『涅槃経』の言葉になったのです。

「衆生のうちなる如来・仏とは、煩悩にかくされて如来のはたらきはまだ現れていないが将来成長して如来となるべき胎児であり、如来の因、かつ如来と同じ本性であるという意」なのです。

そこで、「仏性」と名づけたのです。

『仏教辞典』には「具体的にはそれは、衆生に本来具わる自性清浄心と説明されるが、平易に言えば、凡夫・悪人といえども所有しているような仏心(慈悲心)と言ってよいであろう。

なお、仏性がすべての衆生に有るのか、一部それを有しない衆生(無性、無仏性)も存在するのかをめぐって、意見がわかれる(五性各別説)。」

と説かれています。

道元禅師の正法眼蔵には「仏性の巻」があります。

余語翠厳老師の『これ仏性なり 『正法眼蔵』仏性講話』には次のように説かれています。

「普通の考え方でいきますと、仏になる可能性があるというようなことを仏性というように言っておる人が多いわけです。

それならば、仏性というものがあって、いろいろ修養をしていく間にどんどんその能力が伸びて仏さまになるのだということで、理解だけはできるでしょう。

しかしそういうことではないのだ、というのです。

涅槃経というお経に一切衆生悉有仏性と書いてあります。

悉有はしっつと読みます。

悉く仏性有りというように読むのが普通ですが、そういうふうに読むと、今言ったような考え方になるわけです。

つまり仏性というものが私達の中にあって、 修養したりなんかしているとだんだんその能力が伸びていって、仏さまになるのだというように考えられます。」

という考え方があります。

しかし余語老師は、

「今朝もここの若い人達に話したのですが、雑草というものはないはずじゃということを言いますが、花を育てるために雑草を抜くということをやります。

人間の営みとしてそれをやるが、けれど雑草というものはあり得ないというのです。

勝手に人間が「これ雑草じゃ」と、「これはきれいだから花だ」と区別しているだけのことです。

そこに伸びている草はそこに伸びているだけで、それらの草はそんなこと関係ないわけです。

人間が勝手に区分けをしたのだということはわかるでしょう。

それが当を得ているかどうかは別問題として、人間が区分けをするから、清浄という問題が出てくるのです。

清浄も不清浄もそういうことでしょう。」

と説かれています。

綺麗だ、汚いだ、清らかだ、汚れているというのも人間が作りあげたものと言えます。

そして仏性とは清らかものと思い、煩悩とは汚れたものと思ってしまいます。

しかし余語老師は「人間の感覚をはぶいてしまえば、清浄とか不清浄とかいうことは成りたたないのです。

天地いっぱいの道理というものの中には人間のいう浄穢全部、すべて含まれているのです。

浄穢というのは人間がそういうだけのことで、あるものはただそのままあるのです。

そういうことを深く考えてみれば、花も雑草も同じだというわけです。

仏というものは清浄のものだと思っていて、人間臭味のあるところは清浄ではないような気がして、人間らしいところが全部なくならないと仏さまにならないように思うでしょう。」
と説かれます。

そして更に

「自分の体の中に仏性というひとかたまりのものがあって、それがだんだんと伸びていくという感覚になるわけです。

有という、あるということは所有するということですから、自分が仏性をもっておるということになります。

そうではなくて、仏性の中に己があるのだというのです。

天地の命の中の一分を生きておるというこの命は、仏性の中に自分があるのです。
関係が逆になります。」

「道元禅師という人は言葉の上でも天才であったようにみえます。

五年間、中国の生活をしてこられるわけですが、なかなか容易にできることではありません。

昔は洋行帰りの人の話の中にむこうの言葉がそのまま入ってくるということがあったが、あれがハイカラでね。

道元禅師もそれが癖になっていたのでしょう。文をまっすぐ読むのです。

悉有は仏性なりと読む。悉有というのはことごとくあるというのですから、一切の存在が仏性なのである、ということです。

清浄、不清浄と分けたものでなく、全部包んだものです。

それが仏性だというのです。」

と明解に説いてくださっています。

「悉有は仏性」とは実に大きな広い世界なのであります。

その中で私たちはひとときの夢を見ているようなものなのでしょう。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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