第1172回「錯覚の自覚」

先日の花園大学サテライト ZEN 講座で、小川隆先生の次には、佐々木閑先生のご講義でありました。

これがまた深い内容で大いに学ぶところがありました。

佐々木先生の講義の題は「未来社会における仏教の役割」というもので、この題だけでも興味を覚えます。

まずはじめに佐々木先生は、社会の変化によって私たちは何を失い、なにを得たのかということについて分かりやすく説いてくださいました。

まず佐々木先生は、「言葉の出現」ということについて説かれました。

私たちは、言葉を使うようになって、世の中をありのままに見る力を失い、そして強い自我意を持つようになったというのです。

言葉を使うことによって、世の中をありのままに見る力を失うというのはよく分かります。

山というのは、千差万別いろんな山があります。

しかし、山と言う言葉を使うことによって、千差万別の山々を感じることを失います。

花も、いろんな花がその時々に咲いています。

同じ花でも咲いたときと、時間が経ってからでは違います。

しかし、花という言葉でひとくくりにしてしまっています。

ただ言葉を使うようになって自我意識が強くなるというのが、はじめはよく分かりませんでした。

雨が降っているとします。

私たちは「雨が降っている」という言葉にします。

犬などの動物は言葉がありませんから、ただ雨の中を濡れて歩いているだけです。

雨が降っているという言葉にすると、この言葉には、私は雨が降っていることを知っていると思いがあるというのです。

これを人に伝えたりする時には、あなたはまだ知らないだろうけれども、私は雨が降っていることを知っている、だから教えてあげようというように、自分がという自我意識がそこに生まれているというのです。

自我意識が強くなると、今度はその自我がなくなることを怖れるようになります。

自我の喪失というのは死であります。

死への強い恐怖心を持つようになります。

動物などは言葉がありませんので、そんな死への恐怖心を持たないと佐々木先生は仰っていました。

そしてその死の恐怖を克服するために、宗教が考え出されました。

死にたくないという思いに応えるために、死んでも死なない世界があると説くようになったのです。

輪廻するとか、あの世がある、天国があると説くようになったのでした。

ところが、この宗教的世界観は科学の登場によって効力を失いつつあるのだと佐々木先生は仰っていました。

科学の発達した時代になると、純粋に死んでもしなない世界があるとは信じ切れなくなったのです。

しかしお釈迦様の教えは、異なります。

死んで自我が終わるのを涅槃といって、最高の安楽だと説いたのでした。

いつまでも生きていたいという強い執着を、仏教では「渇愛」と言いました。

この渇愛を滅したら、死を究極の安楽と受け入れることができるのです。

それから次に、「文字の出現」によって大きな変化がありました。

私たちはこの文字の出現によって、記憶力を大きく失いその代わりに論理思考の伝達力を得たと仰っていました。

文字が出来るまでは、すべてを暗誦していたのでした。

仏教の歴史においても経典が文字に書かれるまでは、すべて暗誦して伝えてきたのです。

しかし、文字にすることによって、そんなに覚えなくてもよいようになって、記憶の力を失いました。

その代わり、考えていることを広く伝えることができるようになったのです。

そして現代は、「AI の出現」という大きな変化を迎えています。

私たちは、このAIの出現によって、「創造力を失いその代わりに判断することの煩わしさからの解放を得る (であろう)」というのです。

AIにとって、人間の出来ることは何でもできる、人間でないとできない事は、何も無いというのです。

もうすべてのことをAIがやってくれと、人間は自尊心が無くなってしまい、「閉じた世界での虚栄心」を得るのみだと仰っていました。

かつては「自分探し」などといって、自分だけにしかできないことを探していたのです。

ところが、これこそ私の価値であり、私の本質だと思っていることが、すべてAIにやられてしまい、最後に残るものはなにも無くなります。

これを諸法無我といいますが、それでも人は生きてゆかねばならないとなると、自分の価値をどう見つけるのかが問題になります。

「仲間からのイイネ」だけが生き甲斐になるという「 ネットの楽園」を説いてくださいました。

言葉を使うようになって自我が増大してしまいましたが、科学の発達がこの自我を否定していくはたらきもあるということでした。

たとえば私たちには、自分のまわりを太陽が回っているように見えます。

自分が中心で、世界が回っていると思っていました。

天動説を信じていました。

しかし、天動説は否定されて、私たちが中心ではないということが明らかになったのでした。

世の中を正しく認識するのが科学なのです。

私たちは自分の計る単位はどこでも通じると思い込んでいましたが、人間中心ではないのです。

相対性理論によって、時間は観測者によって異なるという相対的なものとなったのでした。

また量子力学によって、私たちが眼で見たり耳で聞いたりするのとは異なる世界があることが明らかになったのでした。

超ヒモ理論というのがあって、すべては微少なヒモの振動だということも明らかになっているようです。

最近ではエム理論というのがあるそうです。

すべてはエム理論によって現れているというのです。

森羅万象がエム理論の現れだというのですから、私という存在も庭の柏の木もみなエム理論の現れなのだと佐々木先生は説かれていました。

エム理論とは何かと問われたら、庭の柏の木だと答えると、佐々木先生は、小川先生の柏樹子の話に関連して解説されていました。

佐々木先生は、仏教とは何か、独自の定義を示してくださいました。

それは、自分自身の錯覚の自覚とそのしばりからの解放だという定義でした。

私たちは自己中心にしか見ていないのです。

無常であるのに、常に変わらないと錯覚してしまっています。

無我であるのに、我があると錯覚してしまっています。

一切は苦であるのに、楽だと錯覚してしまっているのです。

まず錯覚しているのだと自覚して、そのしばりから解放されることが仏教なのだというのです。

禅は、あらかじめすべてが解放された世界を提示してくれるというのです。

もともとのお釈迦様の教えでは、自己を少しずつ変えてゆくその一歩一歩の課程を丁寧に説いているのだという説明はなるほどと思いました。

実に明解な定義を示していただいて、眼からいくつもの鱗が落ちるような有り難い講演でありました。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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