第1265回「あけてみたれば…」

麟祥院での勉強会では、この四月から小川隆先生の『宗門武庫』の講義と、私が『臨済録』について簡単な話をしています。

先日は、「元来黄檗の仏法多子無し」という箇所を講義していたのでした。

その講義の前に控え室に入ると、すでに小川先生と大乗寺の河野老師とがお見えになっていました。

小川先生にご挨拶して驚いたのが、イスに坐っている姿勢がとても美しくなっていらっしゃることでした。

わずか一度のイス坐禅で、これほどまでに変わるのかと驚いていました。

講義でも講座でも受ける人の心によっていろいろであります。

イス坐禅などというと、こんなものは坐禅ではないと憤慨される方もいらっしゃいますし、私が体をほぐすことに時間をかけて行っていますので、坐禅の時間が足りないと言われる方もいらっしゃいます。

小川先生は、あのワークから自分自身の体に変化を感じられたのでしょう。

そしてその感覚を日常でも絶やさないように意識してくださっているのだと思いました。

その日は五時半まで麟祥院で講義をして、そのあと六時半から八重洲でイス坐禅の会だったのでした。

「多子無し」については、先日の管長日記にも詳しく記した通りであります。

朝比奈宗源老師の『臨済録』では、

「なんだ!黄檗の仏法なんてそんなたあいもないものだったのか。」となっています。

大森曹玄老師の『臨済録講話』には、

「黄檗の禅って、どんなドえらいことかと思ったら、ナーンだ、こんなものだったのか。明けてみたらば猫の糞かなというところである。」と説かれています。

ただいまは入矢義高先生によって、「ああ、黄檗の仏法は端的だったのだ。」と訳されています。

入矢先生の『求道と悦楽』に納められている「禅語つれづれ」には丁寧な解説があります。

こちらも麟祥院で紹介したのでした。

「さて問題は「多子無し」である。これも俗語なのであるが、従来これは「なんの造作もない」とか、「大したことはない」(岩波文庫旧版)とか、「たあいない」(同上新版)などと解釈されてきた。某師の『臨済録新講』 でも、右の一句を「黄檗の禅って、どんなえらいことかと思ったら、ナーンだ、こんなものだったのか」と釈し、さらに「明けてみたらば猫の糞かなというところである」という解説までついている。みな誤りである。」

と手厳しく説かれています。

某師とされて敢て名前を出されていませんが大森曹玄老師であります。

「つまり「多子無し」とはここでは「特別変ったしさいがない」「普通のもの以上の何か違ったものがない」ことである。」

ということなのです。

さて、この大森老師の「明けてみたらば猫の糞かな」という言葉はどこから来たのかとあれこれと調べてみたのでした。

すると、手沢本と呼ばれる、昔の方が手書きで註釈をしたものの中に見出すことができました。

大森老師も天龍寺で修行された方ですから、天龍寺に伝わる手沢本、書き入れ本を写されたりしたのかと想像します。

円覚寺に伝わる手沢本にも「さしたることもない」「明けてみたらば猫の糞かな」と書き込みがあるのです。

なるほど、ここから来たのかと分かったのでした。

講義のあと、河野老師とこの手沢本のあれこれについて話しあっていました。

河野老師は、抄物と呼ばれる註釈書をたくさん調べておられるのです。

しかし『臨済録』には、こんな言葉があります。

入谷先生の現代語訳を参照します。

「当今の修行者が駄目なのは、言葉の解釈で済ませてしまうからだ。

大判のノートに老いぼれ坊主の言葉を書きとめ、四重五重と丁寧に袱紗に包み、人にも見せず、これこそ玄妙な奥義だと言って後生大事にする。

大間違いだ。愚かな盲ども! お前たちは干からびた骨からどんな汁を吸い取ろうというのか。

世間にはもののけじめもつかぬやからがいて、経典の文句についていろいろひねくりまわし、一通りの解釈をでっちあげて〔人に説き示す〕ものがいる。

これはまるで糞の塊を自分の口に含んでから、別の人に吐き与えるようなもの、また田舎ものが口づてに知らせ合うようなものでしかなく、一生をむなしく過ごすだけだ。」

という言葉です。

河野老師と「そもそも『臨済録』に、「大策子上に死老漢の語を抄(うつ)し、三重五重に複子(ふくす)に包んで、人をして見しめず、是れ玄旨なりと道って、以って保重を為す。大いに錯れり。」とあるのにね、今も同じことをやっているね」と笑いながら語り合っていたのでした。

「大判のノートに老いぼれ坊主の言葉を書きとめ、四重五重と丁寧に袱紗に包み、人にも見せず」といって大事にしているのですが、そこに何が書かれているのかというと、「明けてみたらば猫の糞かな」という言葉です。

これこそ、大事なノートだといいながら、それを明けてみたらば猫の糞かなでありましょう。

講義を終えてすぐに八重洲のイス坐禅の会場に移動しました。

イス坐禅も最近は、

一、首と肩の調整

二、足の裏、足で踏む感覚

三、呼吸筋を調整

四、腰を立てる

という四つにまとめて順番に行っているのですが、今回はまず足の裏をはじめに入念に調えました。

そして首肩、呼吸筋などは合わせて行いました。

今回は、ノビとユラスことでこれらを調えてみました。

のびる、のばすという動きをあれこれ行い、その合間合間に体をゆすってゆらすことを取り入れてみました。

のばすとゆらすを交互に行いながら身体をほぐして調えていったのでした。

皆さんと一緒に行ううちにだんだん自分の身体も調ってくるのが実感されます。

今回は有り難いことに新宿の月桂寺の熊谷老師もわざわざご参加くださっていました。

熊谷老師もイス坐禅がとても心地よく、疲れがすっかり取れたと仰ってくださいました。

イス坐禅の合間には、『臨済録』にある言葉を紹介しました。

「諸君、真の仏に形はなく、真の法に相はない。しかるに君たちはひたすらまぼろしのようなものについて、あれこれと思い描いている。

だから、たとえ求め得ても、そんなものは狐狸の変化のようなもので、断じて真の仏ではない。そんなのは外道の見かただ。」

という言葉です。

真実の仏は姿形ではありません。

実にいきいきとした命そのものです。

難しい昔の方の語録を読み解くのも大事ではありますが、イスの上でも身体をほぐしいきいきと坐っているのが、姿形のない真の仏そのものではないかと感じていました。

大事な語録というけれども、案外「明けてみたらば猫の糞かな」かもしれません。

こんな句をしみじみ思ったのでありました。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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