第1167回「無常を観る」

『臨済録』の中に、

「大徳、三界は安きこと無し、猶お火宅の如し。

此は是れ汝が久しく停住する処にあらず。

無常の殺鬼一刹那の間に貴賎老少を揀ばず。」

という言葉があります。

岩波文庫『臨済録』で入矢義高先生は、

「三界(凡夫の迷いの世界)は安きことなく、火事になった家のようなところだ。

ここは君たちが久しく留まるところではない。

死という殺人鬼は、一刻の絶え間もなく貴賤老幼を選ばず、その生命を奪いつつあるのだ。」

と訳されています。

東日本大震災で、被災されたあるお寺の和尚は、津波の惨状を目の当たりにされて、『臨済録』のこの言葉を思ったと仰っていたのが忘れられません。

この言葉についての山田無文老師の提唱を、禅文化研究所の『臨済録』から引用してみましょう。

「大徳、「三界は安きこと無し、猶お火宅の如し」

大徳とはみんなのことを呼ばれたものだ。

みんな、生まれながらにして立派な仏性を持っておるから大徳じゃ。

修行をせんでも大徳である。

これは『法華経』譬喩品の中にある言葉である。

欲界、色界、無色界、これを三界という。迷いの世界だ。

何でも欲を観点にしてものを見ていく世界が欲界だ。

何を見ても金で判断をしていく人がある。

一本の樹を見ても、この樹は何石あるが、これを売ると時価何万円だとか、床柱を見ても、これは大したものだ、これを今買うと何万円じゃと、何を見ても金で判断をしていく人がある。

欲望で判断をしていく人を欲界の衆生というのである。

色界というのは物の世界である。

精神的なものも分からず、欲はないのだが、何でも物として見ていく。

物の世界しか分からん人である。」

「無色界というのは、欲もなく、物からも離れたが、精神の世界だけに尻を据えておる迷いの衆生だ。

別に欲を渇かんではない。

物ということも頭にない。

歌を歌っておればよい。ピアノを弾いておればいい。

絵を描いておればいい。詩を作っておればいい。物も欲しくない、金も欲しくない、風采もかまわん。

汚い乞食みたいな風をして俳句ばかり作っておる。

こういうのを無色界の衆生というのだ。

みんな、迷いの衆生である。

こういう迷いの世界を総合して三界というのである。

三界は安きこと無しだ。

欲界におっても、色界におっても、無色界におっても、この三界をぐるぐると輪廻しておっても、この世界は少しも心を安んぜられる世界ではない。

猶お火宅の如しだ。この世界はまるで火のついた屋敷のようなものじゃ。

いつ棟が焼け落ちるかも分からん。実に不安の世界である。

毎日、時々刻々と世界は動いておるのである。

物は動いておる。社会も動いておる。いつどういうことが起こらんとも分からん。

此れは是れ你が久しく停住する処にあらず

この世の中は少しも安心できるところではない、火のついた屋敷のようなものである。

この世界はお互いが安心していつまでもおれるところじゃない。

無常の殺鬼、刹那の間に、貴賤老少を揀ばず

無常の風が吹けば、たちまちにして、身分の上下にかかわらず、金のあるなしにかかわらず、若い年寄りにかかわらず、男女の区別なく、みんなさっさと消えてなくなってしまう。」

というものです。

道元禅師も『正法眼蔵随聞記』の中で、

「今、出家の人として、即ち仏家に入り、僧道に入らば、すべからくその業を習ふべし。

その儀を守ると云ふは、我執を捨て、知識の教に随ふなり。

その大意は、貪欲無きなり。

貪欲無からんと思はば先づすべからく吾我を離るべきなり。

吾我を離るるには、観無常是れ第一の用心なり。」

と仰せになっています。

講談社学術文庫の『正法眼蔵随聞記』にある山崎正一先生の現代語訳を参照します。

「いま出家者として仏門に入り、僧の道に入るならば、ぜひともその業を習わねばならぬ。

そのやり方を守るというのは、我執をすて、師の教えに従うことをいう。

その大切な点は、むさぼりの欲をなくすことである。

むさぼりの欲をなくそうと思うなら、まず自分というものから離れなければならぬ。

自分というものから離れるには、無常を観ずること、これ第一の心得である。」

というものです。

いつまでもあると思い込んでいるから執着してしまうのでしょう。

いくら理論で分かっていても、実際に経験しないと身にしみないのがお互いであります。

『法華経』の中には、その三界を火で燃えている家に喩えているのです。

家が燃えていながら、その中で遊んでいる子どもたちは、気がついていないというのです。

『子どもたちは燃えさかる家のなかで、遊びほうけていて、火事になっていることに気づいていないし知らないし驚きもしないし怖がってもいない。炎にかこまれて、火傷したり、苦痛にさいなまれたりしているはずなのに、子どもたちの心はそれを感じていないし、外に逃れ出ようともしない』(春秋社『法華経』正木晃)

と書かれています。

「無常の殺鬼」と臨済禅師は、表現されましたが、町を襲う津波はまさにそのように見えたのでありましょう。

津波ならずとも、この迷いの世界は、火に燃えているのであります。

燃えていることにも気がつかずに遊んでいてはたいへんなことになります。

災害はいつ起きるか分かりません。

災害ならずとも、世界では戦争が絶えません。

環境問題が深刻なのは改めていうまでもないのです。

まさに今燃えていると気づくべきなのです。

無常であることに気がつかないといけません。

まずはこの無常であることに気がつくことです。

そして、菩提心とは観無常の心であると言われます。

無常を観るからこそ、悟りを求めようという心が発るのです。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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