第1094回「苦とは思うとおりにならないこと」

ひろさちやさんの『マンダラ人生論下』を読んでいると、「苦の解消への近道は苦を大事にすること」という一節がありました。

そこにこんなことが書かれています。

「風邪の季節になった。

ふと、昔、祖母に教わったことわざを思い出した。

「風邪と客は大事にすればすぐ帰る」

この場合の客は、商売の顧客ではない。

顧客にすぐ帰られたら大変だ。 顧客は引き留めておきたい。

そうではなくて、すぐに帰ってほしい居候的な客がいる。

この客を退散させるには、大事に大事に扱ったほうがよい。そうすると、客は逆に居心地が悪くなって、早く帰る。

そして風邪も同じであって、大事に扱ったほうが治りが早い。そう祖母は教えてくれた。」

というのです。

今も風邪の季節であります。

風邪はだれしもかかりたくなし、嫌なものです。

しかし、風邪を大事にするという発想があるものです。

そこからひろさちやさんは、

「同様に、われわれが人生において苦境に立たされたとき、その苦しみを大事に扱ったほうがよい。

苦境から逃れようとすると、かえって苦しくなる。

いやだ、いやだと思っても苦しみが軽減するわけではない。

だとすれば、その「いやだ、いやだ」と思う気持ちの分だけ余計なのだ。

苦しみを大事にし、苦しみを楽しむ気持ちになるのが、苦しみの解消の近道だと思う。」

と苦しみとの向き合い方について説き進めておられるのであります。

まさしく仏教は、この「苦」をしっかりと受けとめ見つめてきた教えであります。

では、この「苦」をどう受けとめて見つめてきたのかを学んでみましょう。

中村元先生の『ブッダ伝 生涯と思想』(角川ソフィア文庫)に

「苦しみとは何か」という一章があって、そのはじめに「思うとおりにならぬこと」という一節があります。

その一部を引用します。

「老いや病や死が迫ってくるのを人々はどうしてもふせぐことができません。

ただ、この忌まわしい事実から眼をそむけているだけです。

実践としての仏教は、この厳然たる事実から眼をそらすことなく、その事実に立ち向かい、その苦しみを見つめるのです。」

とはっきり説いてくださっています。

そして「ブッダが出家した動機も、人生の苦しみから抜け出るためでしたから、最初期の仏教は、我々の「苦しみ」に立ち向かっていったのです。

この「苦しみ」ということばは、インド人の概念では、「うまくいかぬ」「…しがたい」 「…するのが難しい」という意味で、それが名詞になると「思うとおりにならないこと」、つまり「苦しみ」 「悩み」をあらわす「ドゥクハー」ということばになります。

それが漢訳仏典で「苦」と表現されました。

原始経典では、苦しみの現実を人々の心に訴えております。」

と説いてくださっています。

更に仏典の言葉がひかれています。

「生も苦しみである。老も苦しみである。病も苦しみである。死も苦しみである。愛さない者と会うことも苦しみである。愛する者と別離することも苦しみである。すべて欲するものを得ないことも苦しみである。要約していうならば、五種の執著の素因(五取蘊)は苦しみである。」(『律蔵』)

ということなのです。

ここに説かれていることが四苦八苦なのであります。

「四苦八苦」は『広辞苑』にも
「生・老・病・死の四苦に、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦を合わせたもの。人生の苦の総称。」と解説されています。

『広辞苑』にはそれぞれの説明もあります。

「愛別離苦」とは「親・兄弟・妻子など愛する者と生別・死別する苦しみ」です。

「怨憎会苦」とは「怨み憎む者に会う苦しみ」。

「求不得苦」とは「求めるものが得られない苦しみ」。

「五陰盛苦」とは、「五陰から生ずる心身の苦しみ」ということです。

五蘊というのは五つの集合要素なのです。

五蘊は、色受想行識の五つであって、『仏教辞典』には、

「<色>は感覚器官を備えた身体、

<受>は苦・楽・不苦不楽の3種の感覚あるいは感受、

<想>は認識対象からその姿かたちの像や観念を受動的に受ける表象作用、

<行>は能動的に意志するはたらきあるいは衝動的欲求、

<識>は認識あるいは判断のことと『仏教辞典』には解説されています。

中村先生は「それではなぜ我々は苦しみ悩むのでしょうか。一つは、この世のすべてのものが移り変わる無常なものであるのに、いつまでも常住であってほしいと願う執著の心からです。

もう一つは、我々がいろいろな欲望をもっているから苦しみ悩むのです。」

と説いてくださっています。

五蘊盛苦は、五取蘊苦とも言われます。

五蘊に執着が生まれるので、苦になるのです。

この度サンガ新社から刊行されたスマナサーラ長老の『苦の見方』には、分かりやすい例で説いてくださっています。

「世の中の品物が壊れていることは我々にとってそれほど精神的な問題になりません。

しかし、世にある品物に「私のもの」と執着すると、壊れていることは精神的に耐え難い苦しみになります。

森の中の木が一本、倒れたとしましょう。

自分にとっては痛くもかゆくもない、ごく自然な出来事です。

自分の家の前にあった樹齢四十年になっていた木が倒れたとしましょう。

それは自分の庭にあった木なのです。

倒れると苦しみを感じます。大いに悩むのです。

あるいは、道路で車が事故を起こしたと聞いても無関心で、無駄話扱いすることでしょう。

しかし、事故を起こしたのは自分の車だと聞いた瞬間、限りなく悩み苦しみが現れるのです。」

と分かりやすく解説してくれています。

自分のものと思うと、執着が生じるのであります。

そしてその執着が苦しみをもたらすのです。

中村元先生は「「苦しみ」の本質は肉体的な、また精神的な苦痛だけをいっているのではなくて、「自分の望むようにならないこと」をいっているのだと思われます。」と説いています。

苦はまさに思うとおりにはならないことを意味しています。

思う通りにならぬ世の中と思って、執着を離れ、感覚からもたらされる欲望を制御して生きるのであります。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?