第1229回「警策・考 – 二 –」

『月刊住職』五月号に警策の是非について論じられていました。

総じていろんな意見があるということがよく分かる記事であります。

是非を決めるよりもいろんな見解があるのを知ることが大事であります。

ただひとつ整理しておかないといけないことがあると感じました。

その記事で論じられている警策なるものの種類であります。

大きくわけて三つがあります。

一つは、指導者たる師家が、修行僧を悟りへと導くために用いる棒です。

これはわれわれでは竹篦と言ったりしています。

それから、今回の記事で主に論じられている、坐禅中に、修行僧が警策を持って歩いて、修行僧を叩くというものです。

それから、もうひとつ、何か失敗をしたり、規律を乱した者を罰として打つ棒であります。

一についてもいろんな見解があります。

『月刊住職』に取材に応じてくださっていた相国寺僧堂の小林老師は、坐禅堂内で警策で打つことはしないそうですが、老師が修行僧と問答する場においては、「警策廃止の流れになっても、せめて老師が力量のある雲水をひっぱたく」ことは残して継承させてゆくべきと語っておられます。

これもいろんな老師がいらっしゃるものです。

私も修行時代に何人もの老師方に参禅させてもらってきました。

何をいってもただ鈴を振るだけの老師もいらっしゃれば、懇々と言葉で説得される老師もいらっしゃれば、竹篦を振るわれる老師もいらっしゃいました。

古くは臨済禅師が、師匠である黄檗禅師に仏法の根本義とは何か質問すると、その質問も終わらないうちに打たれたという話があります。

これは、そうして質問に来たあなた自身が仏の現われですよということを、もっとも身近にあった棒で、もっとも端的に示してあげたのです。

老師と修行僧との問答は、今の臨済禅の根本なので、第三者がどうこういうべき問題ではありません。

ただ修行僧の側には、選ぶ権利が保障されています。

修行僧は、この老師とは合わないと思えば、そこを去ればよいのであります。

そうして行脚してゆくのが本来の修行であります。

もしこの自由が制限されて、打たれるのではあれば、問題とすべきでしょう。

それから第三番の罰として打つのは、私は体罰になると認識しています。

暴力としてやめるべきものです。

一番問題として論じられているのが、坐禅堂の中で、修行僧が棒を持って修行僧を打つというところです。

これは修行道場の規則に明記されています。

警策は睡と不睡とを問わず眼を具してこれを行ぜよと言われています。

『月刊住職』の記事の中で建長寺の酒井老師が、「文字通り警覚策励という意味で眠気を払うとか励ましの意味合いで使っています」というものです。

建長寺では「ある程度の年数の経った者には警策を行じるということを、教えています」というのが、これが伝統の修行であります。

ただ、江戸時代以降のものであることは認識しておくべきです。

記事の中に曹洞宗の南直哉老師が、道元禅師が、「あれほど僧堂や修行の作法に厳しお方が警策には何の記述も残しておられない。つまり道元禅師の時代に警策はなかったのでしょう」と仰っているのは事実であります。

何を伝統として受けとめてゆくのかは、指導者によって判断が分かれるところです。

江戸期以降に入ってきた方法に則るのか、もう少し以前の僧堂の在り方を伝統としてゆくのか、こちらもそれぞれの指導者の判断であります。

今回の記事では私が禅堂で警策を打つのをやめたと一石を投じたと書かれていますが、決して私が先駆者ではありません。

それぞれの指導者たる老師の見識で警策を用いない方は過去にもいらっしゃいます。

記事の中でも相国寺僧堂の田中芳州老師は禅堂の中で警策を用いることをやめておられたと書かれています。

かつて曹洞宗の内山興正老師のところも警策を用いずに坐っていたと聞いたことがあります。

昨日私が書いた文章では、私のところの修行道場では修行年数の短い者が多いからというのも理由のひとつだと書いておきましたが、懸念するのは年数が長い者でも間違いを犯すことがあり得ることです。

仏道修行に対して強い情熱と信念と持って長年修行に打ち込んでいる者から見ると、あまり修行に熱心には見えないような修行僧をたたき直してやろうという思いで打ってしまうことがあります。

警策を合法的に行じることができるのは禅堂の中でありますので、その折に、根性を鍛え直すような気持ちで打ってしまうことがあります。

これが恐ろしいと思っています。

「オレがアイツを鍛える」という我見になってしまいます。

また傲慢な心、慢心にもなってしまうのです。

指導する側も、強い信念をもって熱心に長年に修行に打ち込む修行僧のことを信頼しています。

しかし長年熱心に修行している者でも、時に過激になってしまうこともあります。

そういうことが恐ろしいと、私は感じてきました。

どこの修行道場も老師方は、そのようなことを重重承知の上で、慎重なご指導をなさっていらっしゃるので、間違いがないのですが、私は不安を感じたのが事実であります。

我見や慢心を増長するような行為は避けるべきだと思ったのでした。

警策を用いるときには「人我の見を生じることなかれ」と規則に書かれているのですが、長年修行してもこれは難しいのです。

それだけに慎重を期すべきです。

私が小学や中学の頃では、まだ棒を持って叩く先生もいらっしゃいましたが、今やもうありません。

かつて修行僧が後輩の僧を叩いたということも、こんな世相の延長線にあったのだろうと察します。

今、修行道場で修行した僧も、終生修行道場で過ごすのではなく、今の社会に帰ってゆくのです。

それならば今の社会でも通用する指導法で行った方がよいというのが私の判断なのであります。

もっとも警策で指導しない分、さまざまな身体技法を教えてどうしたら坐りやすくなれるのか、自分が今まで学んできたころのありったけを教えてあげるつもりで、毎日時間を割いて指導し、一緒に坐ることを大事にしています。

坐禅の良さを体で感じてくれるようにしてあげれば、打たなくても坐れるはずだという思いでただいま指導しているところなのであります。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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