第1114回「お茶を飲みに行く」

「喫茶去」という禅語があります。

『禅学大辞典』で調べてみると、

「喫茶」が「茶をのむこと」。

「転じて、喫粥・喫飯などとともに、日常の生活にたとえる。」とあって、更に「喫茶去」は、「まぁ、お茶でも召し上れ、の意。趙州従誌のことばで、趙州喫茶去ともいう。喫茶という日常生活のありようが、実は、佛法そのものであることを表現している。」

と解説されています。

秋月龍珉先生の『一日一禅』(講談社学術文庫)に、

「喫茶去」について、次のように説かれています。

「趙州和尚(七七八一八九七)は二人の新到(新参者)の僧にたずねる。 「前にもここに来たことがおありか」 「来たことはありません」「お茶を召しあがれ」。また他の新到にたずねる。

「前にもここに来たことがおありか」「来たことがあります」「お茶を召しあがれ」。

院主(寺務総長)がいった、「老師、はじめて来た者に『お茶を召しあがれ』といわれるのはよいとして、前にも来たことがある者に、なぜ『お茶を召しあがれ』といわれるのですか」。
趙州は「院主さん」と呼んだ。 院主は「はい」と返事をした。和尚はいった、「お茶を召しあがれ」。

新参にも旧参にも、趙州は区別なくお茶をふるまおうというのである。

この一杯の茶が無心にいただけたら、禅の大事はもう卒業だともいえる。」

というのであります。

これはこれで実に味わいの深い解説であります。

しかし、近年この「喫茶去」は、入矢義高先生によって、次のように解釈されるようになっています。

入矢先生の『禅語辞典』から引用します。

「「喫茶去」という禅語がある。

茶室の掛け物などでもよく見かけるものであるが、普通その意味は、「まあ、お茶を一杯お上がり」と解されている。誤りである。

正しくは「茶を飲んでこい」または「茶を飲みにゆけ」という意であって、あちらの茶堂(茶寮〉ヘ行って茶を飲んでから出直してこい、という叱責なのである。

「まあ、お茶をお上がり」というのは、「且坐喫茶」(且く坐して茶を喫せよ〉と混同した誤解であるが、しかし日本では古くからこの誤解が伝統的に受け継がれてきた。

本来なら「喫茶去」と言われたとたん、ギョッとなって忽々に退散せねばならぬはずである。

誤解がそのまま無反省に正統として踏襲されるというのは、敢えて言えば、日本禅に特有の独善的な体質の一つの現われでもあろうか。」

と厳しく指摘されています。

そこで小川隆先生の『中国禅宗史』には次のように訳されているのです。

新しくやってきた二人の行脚僧に、趙州禅師が問われた。
「貴公、前にもここへ来たことがあるか?」
「いいえ、ございません」
「うむ、下がってお茶を飲みなさい」
もう一人にも、問うた、
「前にもここへ来たことがあるか?」
「はい、ございます」
「うむ、下がってお茶を飲みなさい」
院主(寺の寺務局長)が趙州禅師にたずねた。
「初めての者に茶を飲みに行けと仰せられるのはよいとして、前にも来たことのある者にも、なぜ、茶を飲みに行けと仰せられるのですか?」
すると、趙州、「院主どの!」
院主「ハイ!」
趙州「うむ、茶を飲みに行きなさい」

というのです。
分かりやすい訳であります。

小川先生は、この「院主どの」と呼んで、「ハイ!」と答えたところに注目され、「活き身の現実態の自然な作用・営為、そこに「即心即仏」という事実が活き活きと働き出ていることに気づく」ことが大切だとご指摘くださっています。

さて先日は、東京までお茶を飲みに行ってきたのでした。

久しぶりに裏千家の初釜にお招きいただいたのでした。

実に四年ぶりのこととなります。

円覚寺は朝比奈宗源老師以来、裏千家とご縁が深くて、毎年お招きいただいています。

コロナ禍の間は、御無沙汰していたのでした。

久しぶりにおうかがいして、驚いたのは、まずは最初の濃茶席がイス席となっていたことでありました。

かつては皆畳の上に正坐してお茶をいただいていました。

お手前をなされるお家元もイスでお茶をたてる立礼というものでありました。

今はお膝が悪く、正坐できない方も増えていますので、お心遣いなのであります。

お家元も、大宗匠もお元気でいらっしゃいました。

大宗匠は、昨年100歳をお迎えになっています。

今も変わらず姿勢が素晴らしいのです。

それから今まではお濃茶は、五人で飲み回すものでしたが、今回は、各服点てといって、一椀を一人でいただくようになっていました。

これもコロナ禍の対応なのでしょう。

一人前の濃茶を練るというのはとても難しいと思います。

そんなことをお家元に尋ねると、やはり数を練ってできるようになるのですと仰っていました。

今年になって私の濃茶を練るまでに、もう二百数十杯も練っていると仰せでありました。

それほどの修練をなさっているのだと頭が下がる思いでした。

お家元が解説してくださっていましたが、裏千家では慶応の頃に、すでに海外の方の為にイスでお手前をする作法ができていて、更に明治時代に感染症が流行した折に、当時のお家元によって各服点てのお手前の作法ができあがっていたのだそうです。

それぞれの時代に応じて茶道も変化しながら継承されていくのだと学びました。

また薄茶席は、若宗匠がお手前をしてくださっていました。

若宗匠は、とてもお話もお上手で、堂々たるご亭主ぶりでありました。

数年前に円覚寺でお献茶をなされたことも覚えて下さっていて、そんな話題にもなりました。

濃茶席も薄茶席も、私が正客となりましたので、不慣れなことで緊張しましたが、家元や若宗匠のおかげでどうにか勤めてきました。

感動しましたのは、お家元が練ったお濃茶を大宗匠が自ら私のところにお運び下さったことでありました。

これは私も100歳まで精進しなければならぬという思いで頂戴したのでした。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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