第1220回「御朱印を書く」

大型連休の一日、ほんの二時間ほどですが、御朱印を書いていました。

ホトカミの吉田亮さんの講演を聴いて、御朱印に禅語を書くこともあることを知ったのがきっかけでした。

普通御朱印には中央にご本尊の名を書くことが多いと思います。

禅語を書いて、それが禅の教えに触れる縁になれば有り難いことだと思ったのでした。

御朱印を受けたことがあるという人は、今や二千万人とも言われているそうであります。

ひとつの文化として定着しているのだと分かります。

円覚寺でもさまざまな御朱印を授与しているのであります。

連休中は舎利殿の特別公開をしています。

これも年中行事のようになっていますが、私が管長に就任した時に始まったものです。

それはちょうど舎利殿の屋根の葺き替えが終わって、国宝を多くの方に拝観してもらおうと、その年の連休に特別公開をしたのでした。

それから毎年五月の連休に公開しています。

それに合わせて舎利殿でも特別の御朱印を書いています。

こちらは、「舎利瞻礼」と書いているのであります。

瞻は目を上げてみる、見上げるという意味です。

舎利殿は仏舎利をお祀りしているお堂ですから、そのお舎利を見上げて礼拝するという意味であります。

弁天堂では弁天様の御朱印を授けています。

また連休中に功徳林坐禅会を行っていて、その坐禅会に参加すると功徳林という御朱印を授けています。

入り口の御朱印では、本尊の宝冠釈迦如来と書いています。

また「宝雲閣」とも書いています。

修行時代には御朱印のお手伝いもよく行っていました。

今回、吉田さんの講演を聴いたこともあって、禅語の朱印を書いてみようと思ったのでした。

自分の空いている時間で、50名ほどの方に禅語を書いてみたのでした。

御朱印を書くのに少しでも声をかけるといいと吉田さんが仰っていたので、できるだけほんのわずかでも会話をするようにしてみました。

よいお天気だったので、「今日はいい天気ですね」とか、「きれいな御朱印帳ですね」とか、私の前に書いている朱印が建長寺だったりすると「建長寺さんにお参りになったのですね」とか、そんな言葉をかけながら書いていました。

いろいろ学んだのは、この頃は御朱印帳にも実にいろいろあるということです。

布張りのとてもきれいな御朱印帳もあれば、木の表紙の立派なものもあります。

また中に書かれている御朱印もいろいろあることが分かりました。

カラーのスタンプをたくさん押して、綺麗に仕上げている御朱印もございます。

季節ごとに書かれているようなものもあります。

また昔ながらの御朱印もあります。

伊勢神宮さまの御朱印は、ハンコと日付のみで、これまた尊いものだと感じました。

御朱印を書きながら少し会話していると、やはり毎日の私のYouTubeラジオを聞いているという方が多くございました。

これは有り難い事で、お礼を申し上げながら、書いていました。

中には感激してくださっている方もいらっしゃいました。

禅語は「日日是好日」と「無事是れ貴人」そして「至誠息む無し」の三つを書いていました。

それぞれ解説がいると思って、紙一枚に収るように解説を作っておきました。

日日是れ好日の解説は、

「中国宋代に編纂された禅書『碧巌録』にある言葉です。

雲門禅師が或る日、修行僧達に問いました。

「十五日以前の事はしばらくおくとして、十五日以後、どのような心境で送るのか、一句を持ってこい」と。その日がちょうど十五日だったのかもしれません。

要するに、もう過ぎた日のことは問うまい、これからの一日一日をどう過ごすつもりであるかを問うたのです。

残念ながら修行僧達に答えられる者はいなくて、雲門禅師は自ら「日日是れ好日」と答えられました。

どの日もどの日も、よい日であるといっても、よい日とは決して自分にとって都合の良い日という意味ではないでしょう。

もう二度と来ることはない、かけがえのない一日であることはたしかです。

「日日是れ好日」という雲門禅師の言葉に、『碧巌録』を著した圜悟禅師は「誰が家にか明月清風無からん」という一語を著けられました。「どの家にも明月清風があるものだ」という意味です。

また更に「海神貴きを知って価を知らず」という語も添えられています。「海の神さまは珊瑚の貴重なことを知っていてもその真の価まではご存じない」という意味です。

どんな家にあろうとも、たとえどんな目にあっていようとも、明月は眺められるし、清風を全身で感じることはできます。

そんなすばらしい世界の中にありながら、その本当の貴さに気がついている人は稀であるという意味です。

人は、ほんの少しばかり自分の思うに任せぬことがあれば、それだけで全てが嫌になったりしてしまいます。落ち込んだりもします。

しかしそんな時でも、夜空には明月が輝き、外には清風が吹き渡っています。

「悟りとは失って初めて気づく大事な事柄を、失う前に知ることである」と喝破された方がいらっしゃいます。

お互いに、かけがえのないいのちをいただいて、多くの人たちとの出会いに恵まれて、毎日生かされている、この事の貴さに気がつき感謝して生きる日日こそ、まさに「日日是れ好日」なのであります。」

と書いておきました。

「無事是れ貴人」には

「よく似た言葉に「無事是れ名馬」というのもあります。これは競走馬で、無事に怪我無く走り終えるのが一番だという意味です。「無事是れ貴人」も無事でいられることが何より貴い事だと受け止められるかもしれません。

皆の無事を祈る、無事こそ誰しも願うものであります。

「無事是れ貴人」はもっと深い意味があります。実は『臨済録』という、臨済義玄禅師の語録に出てくる禅の言葉です。

臨済禅師は、無事とは何か、求める心が止んだ時が無事であると説かれています。私たちは常に何かを求めて生きています。幸せであったり、財産であったり、知識であったり、愛情であったり様々です。仏道の修行であれば、なによりも仏とは何かと追い求めます。

求める心が止むとは、無理に求めようとしない事ではなく、求めなくても十分に足りていると気がつく事です。では何が足りているのでしょうか。

臨済禅師は、仏さまとは何か、実に端的に今ここで話を聞いているもの、それこそ仏であると説かれています。

聞いているものは何か、生きていればこそ、いのちあればこそ、聞くことができます。このいのちをいただいている、これ以上貴いことは無いと気がつくことこそ、無事です。気がついた人こそ貴人です。

ある書物に「悟りとは失って初めて気づく大事な事柄を、失う前に知ることである」と書かれていました。かけがえのないいのちをいただいて、多くの人たちとの出会いに恵まれて、今ここに生かされている、この事の貴さに手を合わせ感謝して生きる人こそ、まさに「無事是れ貴人」と言えます。」

と書いておいたのでした。

中には二回も書いて欲しいという方もいらっしゃいました。

二種類の禅語を書いてあげたのでした。

連休中のひとときでしたが、あまり混雑することもなく静かに禅語を書いて、少しの会話も出来て有り難い時間でした。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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