第1135回「仏跡巡拝の旅 – その四 –」

仏跡巡拝三日目は、初転法輪の地であるサールナートを訪れて、ワラナシに泊まりました。

夕方に小さな船に乗って、ガンジス川を航行しました。

岸辺には、沐浴している人も見かけました。

六時半には、ヒンズー教のお祭が毎晩あるそうで、船から拝見していました。

実に大勢の方々が熱心にお参りになっていました。

遺体が焼かれている炎も見られました。

なんとも言えない光景でありました。

ヒンズー教を熱心に信仰しておられることがよく分かりました。

お釈迦様がサールナートで、五人の比丘に対して何を説かれたのか、中村元先生の『ブッダ伝 生涯と思想』(角川ソフィア文庫)には、『初転法輪経』からの現代語訳が記されています。

引用させてもらいます。

「修行者らよ。出家者が実践してはならない二つの極端がある。

一つはもろもろの欲望において欲楽に耽ることであって、下劣・野卑で凡愚の行いであり、高尚ならず、ためにならぬものである。

他の一つはみずから苦しめることであって、苦しみであり、高尚ならず、ためにならぬものである。

真理の体現者はこの両極端に近づかないで、中道をさとったのである。

修行僧らよ、真理の体現者のさとった中道とは………それはじつに〈聖なる八支よりなる道〉である。

すなわち、正しい見解、正しい思惟、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい念い、正しい瞑想である。」

じつに〈苦しみ〉は次のごとくである。

生まれも苦しみであり、老いも苦しみであり、病いも苦しみであり、死も苦しみであり、じつに〈苦しみの生起の原因〉は次のごとくである。

それはすなわち、再生をもたらし、喜びと貪りをともない、ここかしこに歓喜を求めるこの妄執である。

じつに〈苦しみの止滅〉は次のごとくである。

それはすなわち、その妄執の完全に離れ去った止滅であり、じつに〈苦しみの止滅にいたる道〉は次のごとくである。

これはじつに聖なる八支よりなる道である。すなわち、正しい見解、正しい思惟、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい念い、正しい瞑想である。

「〈苦しみ〉はこれである」とて、いまだかつて聞いたことのない法に関して、わたくしに眼が生じ、認識が生じ、知慧が生じ、明知が生じ、光明が生じた。じつに「この苦しみがあまねく知られるべきである」

という内容であります。

実践的には、中道を説かれ、思想的には四諦が説かれています。

更に「世尊はこのようにいわれた。五人の修行者の群れは歓喜し、世尊の説かれたことを喜んだ。そしてこの〈決まりことば〉が述べられたときに、尊者コンダンニャに、塵なく汚れなき真理を見る眼が生じた。」

と説かれ、お釈迦様は、

「ああ、コンダンニャはさとったのだ! ああ、コンダンニャはさとったのだ!」と。それゆえに尊者コンダンニャをば〈さとったコンダンニャ〉と名づけるようになった。」と『サンユッタ・ニカーヤ』に書かれているそうなのであります。

そこからコンダンニャを、理解したコンダンニャという意味で、「アンニャーシ・コンダンニャ」と呼ばれるようになったのでした。

漢訳では「阿若憍陳如」と書かれています。

お釈迦様がお亡くなりになるにあたって最後に説かれた教えが『遺教経』であります。

そのはじまりには、

「釈迦牟尼仏、初に法輪を転じて、阿若憍陳如を度し、最後の説法に須跋陀羅(しゅばつだら)を度したもう。

応に度すべき所の者は、皆已に度し訖って、沙羅双樹の間に於いて、将に涅槃に入りたまわんとす。

是の時中夜寂然として声無し、諸の弟子の為に略して法要を説きたもう。」

と説かれています。

お釈迦様は御一代三十五歳から八十歳でお亡くなりになるまで四五年間お説法を続けられました。

そのはじめが阿若憍陳如でありました。

そして最後が須跋陀羅でありました。

中村元先生の『ブッダ伝 生涯と思想』(角川ソフィア文庫)には、「スバッダ」として出ています。

お釈迦様がクシナガラでいよいよ涅槃にお入りになろうかという時に、是非ともお釈迦様にお目にかかりたいと言ってたずねてきました。

おそばにお仕えしていた阿難尊者は、当然お断りました。

それでもどうしても会わせて欲しいと頼むのでした。

中村先生の本には、

「スバッダは同じように三度会わせろといいはりますが、アーナンダは、ブッダは臨終の床で衰弱しきっているから無理だと、三遍ともことわりました。

それでも引き下がる気配もなく、アーナンダは困りはてていました。

瀕死の重病人のブッダはこの様子を聞いていて、彼に会おうというのです。

尊師は、若き人アーナンダが遍歴行者スバッダとこの会話を交わしているのを聞いた。

そこで尊師は、若き人アーナンダに告げた、「やめなさい、アーナンダよ。遍歴行者スバッダを拒絶するな。 スバッダが修行をつづけて来た者に会えるようにしてやれ。

スバッダがわたしにたずねようと欲することは、何でもすべて、知ろうと欲してたずねるのであって、わたしを悩まそうと欲してたずねるのではないであろう。

かれがわたしにたずねたことは、わたしは何でも説明するであろう。

かれはそれを速やかに理解するであろう。」と。」

と書かれています。

スバッダはいろいろと形而上学的な質問をしたようですが。

お釈迦様は「スバッダよ。わたしはあなたに理法を説くことにしよう。それを聞きなさい。よく注意なさいよ。わたしは説くことにしよう」(『マハーパリニッバーナ・スッタンタ』)」と仰せになっています。

中村先生もまた「ブッダはスバッダの形而上学的な質問には答えずに、真理 (ダルマ)に従って生きる心がまえを説くのでした。

「スバッダよ。わたしは二十九歳で、何かしら善を求めて出家した。

スバッダよ。わたしは出家してから五十年余となった。

正理と法の領域のみを歩んで来た。これ以外には〈道の人〉なるものも存在しない」(『マハーパリニッパーナ・スッタンタ』)」

と説かれています。

更に中村先生は、

「ここで注目されるのは、ブッダは「善を求めて」出家したのであり、善でも悪でもない「さとり」を求めて出家したのではないということです。

「いかによく生きるか」が最大の関心事だったのではないかと思われます。

他人のことはいざしらず、自分はひたすら正しい道理・真理(ダルマ)を求めて修行につとめ励んできた。

この理法にかなったやり方で、自分はわが歩むべき道を歩むだけだ。というのです。他人が何といおうと左右されない。この理想をブッダはずっと追い求めてきたというのです。」

と解説されています。

ワラナシを後にして、「いかによく生きるか」をひたすら求めて八十年の生涯を終えられた、その地クシナガラをたずねてきたのでした。

本日は涅槃会であります。

円覚寺では午前十時より仏殿において法要をお勤めします。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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