第733回「不生の仏心とは」

修行道場や居士林で今までいろんな禅の書物を講義してきました。

やはり『無門関』は短いものなので、何度か講義してきました。

それから『碧巌録』という浩瀚な書物もすべて講義しました。

『碧巌録』は、雪竇禅師が百則の公案に頌をつけたもので、その公案と頌に対して著語や評唱をつけたのが圜悟禅師であります。

『碧巌録』の講義にあたって、圜悟禅師のお師匠さまである五祖法演禅師の語録を勉強して講義をしました。

こうして宋の時代の禅を学んだのでありました。

それから次に『臨済録』を講義しようと思いました。

『臨済録』の前に、まず臨済禅師のお師匠さまである黄檗禅師の語録を学んでおこうと思いました。

そうして黄檗禅師の『伝心法要』を一通り学んで講義したのでした。

そこで、黄檗禅師の教えを学ぶと、今までの宋の時代の禅僧たちの教えとは大いに趣が異なるのであります。

この教えは、何かに通じるなと思いました。

何だろうかと考えると思い当たったのが、日本の江戸時代の禅僧盤珪禅師なのでありました。

実に盤珪禅師の教えは、中国唐代の禅僧たちの説かれたところと相通じるのであります。

そうして、『伝心法要』を講義したあとに、修行道場では『臨済録』を、居士林では『盤珪禅師語録』を講義するようになっていったのでした。

かくして『盤珪禅師語録』の講義は、コロナ禍中となって、このYouTubeで講義するようになり、YouTubeで講義したものが、春秋社から『盤珪語録を読む』という書籍になったのでした。

その『伝心法要』に次の言葉がございます。

こちらは、原文を省略させていただいて、筑摩書房『禅の語録 8 伝心法要・宛陵録』から入矢義高先生の現代語訳を引用させてもらいます。

「修行者たちが仏になろうと思うならば、一切の仏法なるものは学ぶ必要は全くない。

学ぶべきことは、求めることなく、著われることのない在り方だけである。

求めることがなければ心は生起せず、著われることがなければ心は消滅せぬ。

その不生不滅こそが仏にほかならぬ。」

と説かれています。

この不生不滅こそが仏、即ち盤珪禅師は仏心と説かれたのでした。

盤珪禅師は、

「人々皆おやのうみ附てたもったは、仏心ひとつでござる。

其仏心は不生にして、霊明なものに極りました。

不生な物なれば、不滅なものとはいふに及ばぬゆへに、身どもは不滅とも申さぬ。
仏心は不生なが仏心で、一切事は不生の仏心で調ひまするわひの。」

生じないのですから、滅するということはあり得ないので、盤珪禅師は不滅ということはいわなくてもいいと仰せになっているのです。

不生の仏心のままで暮らしなさいと盤珪禅師は、説かれたのですが、これが黄檗禅師の仰る「求めることなく、著われることのない在り方だけ」ということになります。

更に『伝心法要』には、この不生の仏心が詳しく説かれています。

こちらも入谷先生の現代語訳を参照します。

「この心に具わる霊覚の本性は、初めなき永劫の昔から虚空と同じ齢を保ちつつ、生まれたこともなく、滅びたこともなく、存在としてあることもなく、非存在としても規定されず、汚れもせず、清浄ともならず、音を響かせもせず、静まりかえりもせず、若くもなければ年も取らず、方向もなく位置もなく、内もなく外もなく、計量すべくもなく、また形貌をいうべくもなく、色もなければ音もなく、探し当てようもなく尋ねようもなく、知的な認識では役に立たず、言葉による定着もできず、対象として把えられもせず、こちらからの働きかけも届かない。

もろもろの仏とボサツと、そして一切の生きとし生けるものとは、みなともにこの偉大なる悟り=ネハンの本性を共有している。

その本性こそは心にほかならず、その心は仏にほかならず、その仏は法にほかならぬ。

ただの一念でも真実の法を外れれば、一切は妄想となる。

といっても、ある設定された心でもってさらに心を求めてはならぬし、ある設定された仏を手がかりにしてさらに仏を求めてはならぬし、また、ある設定された法を足場にしてさらに法を求めてはならない。

だから、真の修道者は、ずばりそのままに無心となって、体で合一するだけである。

もし、そこにチラリとでも心の志向が働けば、そのとたんに的はずれである。」

というのであります。

まさしく盤珪禅師が

「心上に心を生じ、不生にならうとするは、誤なり。」と仰せの通りなのです。

また盤珪禅師が、「うすひき歌」で

「不生不滅のこの心なれば 地水火風はかりの宿
生まれ来たりしいにしえ問えば 何も思わぬこの心
来たる如くに心を持てば じきにこの身が生如来
よきもあしきも思いしことは おのがこの身のある故ぞ」

と詠っておられる通りであります。

この辺の消息を『伝心法要』では、

「およそ人が命の終ろうとする時には、おのが肉体を構成する五蘊はみな実体なきものであり、四大には自我はなく、ただ本源の真心のみは姿かたちをもたずに、去ることも来ることもなく、わが身が生まれた時にそのもの自体が宿り来たったのでもなく、わが命果てる時にそのもの自体が離れ去るのでもないと諦観すれば、その人の境地は円かな静寂のなかに安らいで、心と境とは一つになるであろう。」と
説かれています。

この身は、地水火風という四つの元素が集まった仮の宿にすぎず、その大本に、生じることも滅することもない仏心が変わらずにあり続けているというのであります。

盤珪禅師は、唐代の禅僧たちの語録を学んで、このように説法されたのではなく、ただひたすら坐禅修行して「一切は不生で調う」と気がついて、その体験から自在に独自の言葉で説法されたのでした。

その説法が期せずして唐代の禅僧達の説かれたところと一致しているのであります。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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