第1269回「仏教伝来」

仏教伝来はいつなのか、西暦五三八年のことだと言われています。

岩波書店の『仏教辞典』にも

「私的には、すでに帰化人が仏法を信奉していたと思われるが、公的には、538年、百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)(聖王)が使者を通して仏像や経典を送ってきたことが、日本への仏教伝来(公伝)とされる。」

と書かれています。

「聖明王」については、

「?ー554 正しくは<聖王>。百済(くだら)と日本との関係は、他の朝鮮諸国と違い、一貫して良好であった。

6世紀の初め頃、百済に武寧王(ぶねいおう)が立ち、高句麗(こうくり)に攻められ漢城を捨てて公州に移ったが、やがて百済を立て直し、倭と修好した。

武寧王の子聖明王は父王が523年に没した後、百済王となり父王の志をつぎ日本と修好し、仏像・経論を大和(やまと)の朝廷に献じた。

これが我が国への<仏教公伝>で、その年は五三八年であるが、五五二年(欽明13)とする説もある。」

とも書かれています。

西暦五三八年というと、中国においては梁の武帝が盂蘭盆会を行った年でもあります。

武帝は、南朝梁(りょう)の初代皇帝であります。

在位は五〇二年から五四九年まで、蕭衍という名です。

南朝文化黄金時代を現出させ、南朝の仏教も頂点に達した時の方です。

武帝は、仏教を篤く信奉し、帝位についた502年、自宅を光宅寺と改めたほどです。

その寺には法雲(四六七~五二九)という高僧を住まわせています。

武帝は、達磨大師とも問答した事で知られています。

504年には詔を下し、道教を捨てて仏教に帰依しました。

「511年、自ら断酒肉文を撰し、仏教徒としての戒律生活に入り、513年、宗廟の犠牲を廃し、517年、天下の道観(どうかん)(道教寺院)を廃して道士を還俗(げんぞく)させた。519年、禁中に戒壇を築き菩薩戒(ぼさつかい)を受けた」と『仏教辞典』には書かれいてます。

達磨大師と問答されたことは禅門でも知られています。

百済の聖明王は、梁の武帝からも支援を受けていました。

また五三八年というと、天台大師智顗の生まれた年でもあります。

もちろん、まだ玄奘三蔵は生まれてはいません。

鳩摩羅什はいましたので、鳩摩羅什訳の『法華経』などを読むことはできた時代です。

そんな頃『仏教辞典』によれば、

「氏族分立の時代で、伝来にさいして崇仏・排仏の論争がおきたというが、実際は国際派の蘇我(そが)氏と国内派の物部(もののべ)氏の権力争いに仏教が巻きこまれたものであり、信仰的には、蘇我氏が自己の氏神として仏を取りいれ、物部氏は国神(くにつかみ)を立てたということである。

仏が<蕃神(となりぐにのかみ)>とか<客神(まろうどがみ)>などと表現されたように、当時は、まだ仏と神との違いは知られていない。」
と書かれています。

歴史で学ぶことですが、蘇我氏と物部氏の争いがあって蘇我氏が勝ったのでした。

飛鳥時代になると、天皇を中心とした国家体制が整って、「寺院の建立、経典の読誦・講説、諸種の法要、仏像の製作など」がなされて、それは「多くは鎮護国家・除災招福を目的としたものである」と書かれています。
また『仏教辞典』には、

「奈良時代になると、仏教の浸透が進み、南都六宗のように、学僧によるめざましい研究成果も現れ、日本文化の形成に仏教が大きな影響を与えた。

他方、仏教の日本化も見のがされてはならない。

現実超越を基調とする仏教は、しばしば日本的変容を受けて現実肯定的になっていった。神仏習合や文芸に摂取された仏教に、それが見られる。」

とも書かれています。

仏教が日本に伝わって定着するには、仏法僧の三宝がそろうことが必須でした。

仏様とその教えと、その教えを信奉する教団の三つであります。

仏様とその教えとは、仏像と経典をいただければそれで、十分であります。

問題は教団であるサンガです。

サンガを輸入するのは容易ではありません。

サンガとは僧侶たちが作る組織です。

最低でも四人がいないとサンガにはなりません。

しかも、出家して僧侶となるためには、 十人以上の僧侶の許可が必要とされているのです。

十人の僧侶を船で大陸から連れてこないといけないのでした。

今と違って船で大陸から渡ってくるのは容易ではありませんでした。

当時日本の僧が中国に行っても正式に受戒をしていないので、沙弥としてしか扱われなかったようです。

なんとか日本でも受戒できるようにと七三三年(天平五)に栄叡と普照らが中国から戒師を招請するために派遣されました。

栄叡・普照らは、七四二年(天平14)揚州大明寺の鑑真和上を訪れ、来日を要請しました。

鑑真和上は六八八年のお生れですので、この時で五四歳でした。

当時海を越えて日本に来るというのはたいへんなことでした。

五度の渡日を企てましたが、妨害や難破により五度とも失敗しました。

鑑真和上自身も失明しました。

そうした失敗を乗り越え、七五三年(天平勝宝5)十二月に渡日に成功しました。

鑑真和上も六五歳になっていました。

七五四年(天平勝宝6)には奈良に入り、四月には東大寺大仏殿の前に仮設の戒壇を築いて聖武上皇・光明太后らに菩薩戒を授けました。

さらに、80余人の僧に具足戒を授けました。

ここに、戒壇で三師七証方式により『四分律』の二五〇戒を授ける国家的授戒制が始まったのでした。

こうしてようやく日本も正式に仏教国となることができたのでした。

五三八年に仏像などが伝わってから七五四年まで、実に二一六年の歳月がかかったのでした。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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