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小豆島に行くから『二十四の瞳』再読してみた(毎日読書メモ(427))

トップ画像は、古本屋さんのサイトから借りてきた、壷井栄『ジュニア版日本文学名作選5 二十四の瞳』(偕成社)の表紙。昔持っていた本。当時2-3回は読んだと思う。
それから40年以上たってしまったのだが、瀬戸内国際芸術祭で小豆島に行くことになったので、やはり、もう一度読んでおかなくてはね、ということで図書館で借りてきた。
先生の名前が大石先生で、小柄だから生徒たちに小石先生と呼ばれていたこととか、泣き虫だったこととか、すごーく断片的な記憶しかなかったので、あらためて読んでみてすごく新鮮だった。
岬の分教場は、小豆島の南側に飛び出した半島の先端にある。内海と言う湾を隔てて、小豆島の本体部には船で渡れば3キロ位だが、悪路を5キロ以上歩かないと本村に辿り着けないので、小学4年生までの子どもは分教場に通い、5年生から本校に通う。その分教場には定年間近のおとこ先生と、新米のおなご先生が配属されているのだが、昨年度までのおなご先生がお嫁に行くので退職することになり、やってきたのが大石先生。対岸の一本松地域に母と住んでいる大石先生は、自転車で8キロの道をこいで、分教場までやってくる。チャリなんて見たことない、ましてや女性がそんなものに乗って来るなんて、と、子どもたちも村の人たちも吃驚、というところから物語は始まる。

しかし40年以上ぶりに読んでみて、何が驚いたって(忘れていただけだが)
(1)大石先生は分教場にはたった1学期しかいなかった! 2学期の始業式の日にアキレス腱断裂して休職し(なのでおとこ先生が四苦八苦してオルガンの猛特訓をする場面などがある)、そのまま本校に異動してしまうのだ。異動が決まった時に代わりに岬の分教場に行くことになったのは、まだ40前なのに「老朽」と呼ばれ、このまま本校にいたら来年には退職勧告を出される見込みだった女先生である。雇用機会均等なんてことばもない昭和3年。
(2)それから、瀬戸内海べりの一寒村、と冒頭に書かれているが、小豆島、という名前は一度も出てこなかったことにも驚いた。映画化されて、撮影セットがそのまま観光地化したりしていて、読んだことない人でもこれが小豆島の物語であることは知っているのに(壷井栄自身が小豆島の出身)、別に物語は小豆島には特化していないのである。分教場で教えた当時の1年生たちが5年生になって本村に来て、また大石先生に教わるのだが、6年生の修学旅行は、前は1泊でお伊勢参りしていたのが、時勢が許さなくなって、日帰りの金毘羅さんになった、というの位が具体的な地名か。
(3)最初に分教場に教えに行ったときは別に泣き虫じゃなかった! 泣き虫で、生徒に泣きみそ先生、とあだ名をつけられてしまうのは、巻末の方のずっと年をとってからのことだった。
読んでいて、アキレス腱切って自宅で療養している大石先生を子どもたちが歩いてお見舞いに行った話とか、月夜の蟹と闇夜の蟹はどちらが美味しいか、と子どもたちが蟹をとって学校に持ってきた話とか、他の女子が百合の花の絵の描かれたアルマイトの弁当箱を買ってもらっていて、親にねだったけれど、買ってもらえないどころか母親の褥死で学校にすら通えなくなってしまった松江のエピソードとか、あったあった、と思い出す。
近隣の小学校の先生がアカとして摘発され国賊扱いになったエピソード、その先生が作った文集をたまたま大石先生も子どもに読み聞かせたりしていたのがわかって、周りの先生が慌ててその文集を焼却したり、というシーンなどには、プロレタリア文学に近い立ち位置だった壷井栄(夫の壷井繁治はもっとあきらかにプロレタリア文学者だった)の主張のようなものが見える。
大石先生は、子どもたちが小学校を卒業するタイミングで、体調不良を理由に退職し、その後子どもを3人産む。結婚しても仕事は続けていたのもすっかり忘れていた(夫は船乗りで、結婚後もずっと母と二人暮らしが続いていたのもすっかり忘れていた)。
子育ての期間がちょうど戦中になり、教え子たちが過酷な運命に見舞われたのと同様、大石先生も辛い目に遭う。そして戦後、生活のために再び教職に戻るのだが、終戦を喜んだ大石先生を息子が批判的な目で見るシーンなどにも、壷井栄の反戦思想がはっきり打ち出されている。そして、すっかり老けてしまった姿で、息子に船で岬まで送ってもらって岬の分教場で教鞭をとる大石先生は、かつての教え子やそのゆかりの人々と出会うことになる。亡くなった子、行方知れずの子も多く、切ない思いもあるが、戦争が終わって、これからを強く生きるのだ、という強い意思も感じさせる終わり方。

しかし小豆島広かった。小豆島でまる一日過ごしたが、全然島一周は出来ず、本当に突端にある岬分教場の辺りには近づくことも出来なかった。いつか小豆島を再訪できればその時こそ。でもその時はもう一度『二十四の瞳』を読み直さないとダメかもね...。


土庄港近くにあった平和の像
子どもたちのあだ名の石碑もぐるりと並んでいた。


土庄町のマンホールは『二十四の瞳』模様だったが、物語の舞台は土庄ではなく小豆島町である。

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