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森見登美彦『熱帯』(文藝春秋)

「汝にかかわりなきことを語るなかれ しからずんば汝は好まざることを聞くならん」

佐山尚一という消息不明の作家が書いた『熱帯』という小説、入手した人は心を掴まれながら、読了する前に本が消息不明となり、読み終わった人は誰もいないという。『熱帯』の結末に執着する人々が集まり、自分の記憶の中にある『熱帯』の断片を披露し合い、少しでも核心に迫ろうとする読書会、その参加者の駆け引き、抜け駆け、対話の中から浮かび上がる新しいキーワード。登場人物たちは有楽町を、神保町を、そして京都を歩く。街の気配がほのかに立ちのぼる。

やがて物語は記憶喪失になって「不可視の群島」に迷い込む主人公(彼は『熱帯』の主人公なのか?)のモノローグになっていく。基本文字情報だけで進む物語の中に一葉だけ挿入される、不可視の群島の地図は、読者に何も伝えてはくれず、逆にもやもやを高める。途中から現れる登場人物たちはこの物語の外の世界にいる関係者の仮託された姿なのか? 千一夜物語へのこだわり。シャハラザードはどうやってこうも緻密に千一夜の物語を紡いだのか。

ありとあらゆる小道具や、細緻な描写すべてが魅力的、なのだが、読む前から、この小説は直木賞候補となりながら、受賞を逃していることを知っているわたしは、この物語が最後で腑に落ちていないことを、予期してしまっている。点睛を欠かない画龍なら、議論するまでもなく直木賞を受賞していた筈だ。という訳で、賞レースの結末による先入観はあるが、そうやって最初から何割引きかの気分で読んでいたら、これは予想以上にまとまった、美しい物語であった。謎は、レファレンスのカードを収納する、木製のカードボックスの中からいづるのか。無人島で僕を慰める達磨のキャラも魅力的。海の中を走る2両編成の列車は、「千と千尋の神隠し」を思い起こさせる美しさ。しかし、全体として風呂敷を広げ過ぎた感あり。単行本520ページ余はちょっと長過ぎた。たぶん、400ページ位でまとめられていたら、引き締まった魅力的な物語になっていたような気がする。謎を解かないままもやっと終わる物語は、純文学ならありだろうが、直木賞候補作はそれでは受け入れがたいものがあるのである。小説家森見登美彦が生きるリアル世界、森見登美彦に『熱帯』の話をする白石さんのメタ世界の中に、共に『熱帯』の謎に迫ろうとしながら単身京都に向かい、そこで白石さん宛に長々と物語を書き送ろうとする池内さんがおり、池内さんの物語からまた遠く離れた場所に、不可視の群島にいる僕と佐山尚一の物語があるが、それはどこかで京都につながっている。不思議な入れ子構造。

魅力的な物語を心行くまで味わいたい、という気持ちを募らせる、読書のための読書。予想ほどはもやらず、噛みしめながら読めた。でも、森見登美彦ならこれ1冊、というときには勧めにくいかな。1冊読むなら『夜は短し歩けよ乙女』か『有頂天家族』かなぁ。

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