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クラクションは霧の中で 1話

あらすじ
 睦月、朔、零は五つずつ歳の離れた兄姉弟。少し変わった両親と少し変わった叔父がいて、今日も大きなおうちでは淡々と穏やかな生活が営まれている。
 ある日、父親が失踪し、その五年後に後を追うように母親も失踪する。父親の失踪を巡る兄姉弟の記憶は食い違い倒錯しているが、彼らはそのことに気づきながら口にしようとはしない。真相を握る鍵は、この小説が置かれたジャンルにある。

(睦月十六歳 朔十一歳 零六歳)

 兄の名前は睦月といい、弟の名前は零、私の名前は朔という。睦月、朔、零、という名前は別に三人合わせて一月一日零時の年の始め、と意図してつけられたわけではなく、単に兄は一月に生まれたから、私は一日に生まれたから、弟は零時ちょうどに足の先まですぽんと抜けたから、という至極安直な理由でそれぞれ名付けられた。
 私たち三人はちょうど五つずつ歳が離れていたので私が五歳で零が生まれた時、五年後には妹が生まれてくるものだと(つまり子供というのは五年毎に男女交互にやってくるものなのだと)思っていたが、実際私が十歳、つまり睦月が十五歳で零が五歳の時に妹が生まれてくることはなかった。もし産んでいたとしたら母は当時四十歳。その年齢は出産にはやや高齢である、ということをその時にはまだ分かっていなかった。
 結局それ以降子供が生まれてくることはなくなったので私たちはこの世に三人兄姉弟として生まれ、そして三人兄姉弟として、生きてゆくことになった。
 父と母は私たちに二つの自由を用意した。その一つが五歳になると与えられる「自分の部屋」だった。一度部屋を与えられたら読書も、勉強も、眠るのも、基本的にそこで行うこと、リビングやダイニングといった共有スペースを除く部屋、つまり父の部屋や母の部屋、それから兄弟の部屋であってもきちんとノックをして返事を待ってから入ること、そして人の部屋に入ったならばその部屋のルール——例えば、母の部屋に入る時には入り口でスリッパをぬいで揃え、清潔な靴下(一度も外履きに足を入れていない靴下)で入ること、など——を守ることが義務付けられていた。個人の時間と空間を(たとえそれが小さな子供であったとしても)守る、というのが我が家の基本方針であった。
 睦月の部屋はオフホワイトの床板にチャコールグレーのカーテン、もともとダークブラウンだった壁板は上半分が床板と同じオフホワイトに塗られていて、そこに重厚なオーク材の机、年代もののステレオ(これは睦月が十二歳の時に納戸から引っ張り出してきたもの)とシンプルなベッド(カバーはカーテンと同じ、チャコールグレー)が置かれていて、私の部屋はダークブラウンの床板も壁もそのままにカーテンはエンジと山吹色で、飾り彫りの施された猫脚のベッドに小さな机、それから壁一面に天井まである大きな本棚が置いてあった。私は文字を覚えるのが早く、五歳の時にはもう絵本ではなく『私のあしながおじさん』や『オペラ座の怪人』なんかを読んでいて、我が家では母に次ぐ二番目の読書家を自負していた。中でも私のお気に入りは指輪物語シリーズで、部屋についた出窓のその空中に出っ張った場所に小さく座ってエルフと人間たちの物語を読むのがなんといっても好きだった。
 私も睦月も自分の部屋を大層気に入っていた。なんせ自分の部屋の全ては私たちが選んで、私たちが決めたもので、私たちのためだけにあつらえられた特別な部屋だったからだ
 しかし零だけは違った。零だけは自分の部屋をひどく嫌がって最後まで壁紙一つ選ぼうとしなかった。それでも零が「自分の部屋」を受け容れるまで部屋づくりを待つわけにもいかない。「自分の部屋」は五歳のうちにもつもの、と決められていたからだ。それは私や睦月はもちろん、母も、母の弟である叔父もそうしてきたことで、私の部屋が出来た時には祖父母と叔父がお祝いを持ってやってきた。私の部屋をじっくりと眺めて祖父が一言、「いい部屋だ」と言った時には、初めて「誇らしい」という気持ちになったものだ。
 結局、零の部屋は私と睦月、それから父と母と叔父の五人で話し合って決めることになった。そのせいか祖父母がやってきた時に出来上がっていた零の部屋はどこかちぐはぐな感じがして、我が家で最も統一性のない部屋となっていた。祖父は零に「おめでとう」と言ったが、それ以外部屋については何もコメントしなかった。「自分の部屋」はやはり自分で選んで、自分で決めなければならなかったのだ。
 零は自分の部屋が出来た後もほとんどの時間を私の部屋やリビングで過ごし、夜は私の部屋のベッドに潜り込んできた。
「睦月の部屋には行かないの?」
 私がそう尋ねると零は自分の枕に顔をうずめ、ゴニョゴニョと「睦月くんはぁ……」と言って言葉を濁した。そんな零の様子を見ながら私は思わず微笑んでしまう。私はわざと、この小さな弟に意地悪な質問をしたのだ。
 私たち兄弟には小さなころからそれぞれ苦手なものがあった。私は太っている女の人、睦月はガリガリの老人、そして零にとってのそれは、睦月なのだった。
 睦月が零に意地悪だったなんてことはまるでなく、歳の離れた私たちに睦月はいつだってやさしかった。おやつのお菓子が三種類あれば必ず私たちに先に選ばせてくれたし、出かけた先で人混みがひどい時にはそのほっそりとした身体で零を抱き上げ、私の手を引いてくれた。睦月のような人を、「紳士」というのだと思う。最近本で読んで知った言葉だ。睦月は常に完璧な兄であり、スマートな紳士であった。それでも零はこの十歳上の兄をなぜだかずっと苦手としていたのだった。理由はよく、分からない。私はこの五つ下の弟を本当に可愛く思っていたので零がベッドに潜り込んでくるのは嬉しかったし、私が本を読んでいる間、彼が部屋の隅にいても全く気にならなかった(零はよく、私の部屋で絵を描いていた。それは身内びいきを差し引いても十分に、その齢の子とは思えないレベルだった。零は、物を注意深く観察するのがとても上手なのだ)。零は少し寂しがり屋で、いつもニコニコしていて、朗らかでやさしく、お日様の匂いがした。零は我が家の、天使だったのだ。

 私たちに与えられたもう一つの自由、それは学校に行くことだった。
「少し難しい話をするわね。」
 私が六歳の時、母は私の部屋に来てそう言った。もちろん、きちんとドアをノックして「合言葉は」「ライスカッパーフィールドの空は高い」と答えてから。
「あなたたち子供は、教育を受ける権利がある。つまり、あなたが望むならいつでも、勉強することが出来る、という意味ね。そしてそれと同時に、私たち親は、あなたたちに教育を受けさせる義務がある。つまり、受けさせないと、いけないの。」
「いけない?」
 私は不思議に思って聞き返した。
「私たちは勉強をしてもいいけど、ママたちは、私たちに勉強をさせなければいけないの?」
 それってちぐはぐだわ。私の言葉に母は笑った。困ったことにね。と言って。
「つまり、どちらかと言えば、あなたたちは教育を受けなければいけないけれど、その方法はあなたたちが決めていいの。つまり、学校に行くか、家で勉強するか。」
 分かるかしら。母はそう言って首をかしげた。権利や義務という言葉は当時は難しかったけれど(今はもちろん、理解している)、母がゆっくりていねいにかみ砕いてくれた説明に私はうなずいた。勉強をしなければいけないこと、その方法が選べること、そして、この社会のルールは少しちぐはぐなこと。
 結局、睦月は皆勤賞で小学校と中学校を卒業したし児童会長や生徒会長、と長と名の付くものをみんな立派にやり遂げた。一方で私は母の言う「権利」を行使すべく、気が向いた時には学校に行ったり気が向かなければ家で勉強したりした。家で勉強をする時にはいつも母が教えてくれた。母はなんでも知っていて、教えるのが上手で、話が面白くて、家での勉強は学校の授業よりずっと楽しいのに睦月がどうしてそんなにも頑なに学校に通い続けるのか、私にはさっぱり理解できなかった。
「ママはどうしてそんなに頭がいいのに働いていないの?」
 ある日、不思議に思って母に聞いたことがある。我が家は父が外で働いて、母が家で家事をしたり私たちに勉強を教えたりする、という風に役割が分担されていた。しかし世の中には母親も会社で働く家があるということを私はぼんやりと知っていた。そういう母親を「キャリアウーマン」というのだと。「キャリアウーマン」という言葉の響きは、知的な母のイメージによく合っていた。
「何をすればいいか、分からなかったの。」
 私の質問に、母は肩をすくめてそう言った。

 風の通り道に寝転んで本を読んでいた。トムソーヤの冒険を読んでいたはずが、いつしかうとうとと眠くなって本にはさんだ指一本分、うすく意識を残したまま浅い眠りの中で夢を見た。
 夢から醒めた夢なのか、あるいは断続的な細切れの夢なのか。夢の中の「わたし」は一つ前の夢の内容を覚えていて、それが夢か現実かを人に尋ねていた。顔の見えないその人は「夢だよ。決まってるだろ?」と言って笑うのだが(顔が見えないのに笑ったことは分かるのだ。なぜか)、その現実(と思っている夢)もその一つ前の夢とは遠くはない事態になっていて、階下の物音で目が覚めた時、夢の内容は全く覚えていないのに、ただただひどい混乱だけが残っていた。
 階下で響いたのは、母と零が帰ってきた音だった。今日は零の小学校の入学式だったのだ。
 零はきっと小学校で人気者になるに違いない、と私は思っていた。なんせ零はいつもニコニコとしていて天使のようだし、口笛をどこまでも遠く響かせることが出来たし、絵も上手で、それにサラサラとした綺麗な黒髪をしているのだから。私のような、色素のうすいクセッ毛ではなくて。
 零が天使たるゆえんは幾らでもあるが、一番最近の出来事で言うと、先週叔父を訪ねて電車に乗った時のことだ。電車はそこそこ混んでいたが私たちが乗り込んですぐにちょうど目の前の席が空いた。私がその席に零を座らせ自分は左手でつり革に捕まってボンヤリと変化のない灰色の窓を眺めていると、突然右手になまあたたかい息がかかったのだ。ひっ、と飛び上がりそうなくらい驚いて視線を下ろした。犬だった。で、電車の中に犬がいる……!私は平静を装っていたものの、この混沌として灰色に味気のない電車の中に犬がいるということがなんだかおかしく、愉快なことに思えた。ハーネスをつけたその犬は盲導犬らしく零の隣に座る男性の足元にいたのだが、立ったり座ったり近くの乗客の方へ行ったりとじっとしていられないたちのようでお世辞にもあまりお利口さんとは言えない様子だった。それでもその犬を見る周りの乗客はみな不快というより楽し気な表情で、電車の中という日常の景色に突然現れたその毛むくじゃらな存在を楽しんでいるように見えて、私はそんな車内の和やかな雰囲気に何故だかホッとしていた。その犬が人々から受け入れられているということがなんだか嬉しく、安心したのだ。
 しばらく楽しい気持ちでその犬が他の人の手のひらに額をこすりつけているのを(そしてこすりつけられている人が嬉しそうにしているのを)眺めていたが、途中で私は夢から覚めたみたいにハッとした。この飼い主には、この和やかな雰囲気も、人々の楽し気な眼差しも、見えていないのだということに気付いたのだ。眉を顰められているかもしれない。迷惑そうな顔をされているかもしれない。そう思いながら、それを確かめることもできずにただリードをギュっとつかんでじっと座り続けるのは、一体どんなに怖いことだろう。
「朔ちゃん。」
 そんなことを考えていたら、零がふと朗らかな声を上げた。
「電車の中でワンちゃんに会えて、うれしいねえ。」
 一瞬、空気がかたまって、すぐにやわらかな新しい流れがすべてを新鮮なものに入れ替えた。それは零の隣に座る飼い主にも届いたようで、強張って見えた彼の表情がふっと緩んだような気がした。
「本当にねえ、かわいいねえ。」
 そう返事をしながら私はこの小さな弟が誇らしくて、誇らしくてたまらなかった。
「ありがとう。」
 零の方にそう言って、盲導犬を連れた彼は次の駅で降りて行った。零の隣の席が空くと私はそこに座りながらたまらず隣に座る弟を抱きしめた。
「なぁに?朔ちゃん。」
 弟の楽し気な声が耳元でコロコロと鳴っていた。

「ただいま!」
 階段を駆け上ってきた零を出迎えると、私の小さな弟は真っ直ぐに私の腕の中に飛び込んできた。ふわりとお日様の匂いがする。
「学校はどうだった?」
 そのサラサラとした黒髪をなでながら私が尋ねると、零は元気いっぱいに答えた。
「とっても楽しかった!」
 その言葉に私はにっこりとする。
「やっぱりね。」
 私の小さな弟は、みんなに愛される天使なのだ。
 順調に思えた零の小学校通いは呆気なく終わった。たったの、一週間。昼休み、友達とじゃれて遊んでいる最中に突然叫び声をあげて失神したらしい。その友達は軽くくすぐっただけだと言い、周りで見ていた子たちも同様の証言をしたが、結局のところ、何が起きたのかは分からない。ただ、零はその次の日から小学校に行かなくなった。

「どう思う?」
 睦月の部屋を訪ねると、いつの間にか設置されていた電気ケトルからお湯を注ぎ、ホットココアをごちそうしてくれた。マグを両手で包むように持ちながら私がした質問に、睦月は自分用のコーヒーを淹れながら困った顔で微笑んだ。
「どう思うも何も……零が自分で決めることだからなぁ。」
「せっかく一緒に学校に通える最初で最後の年なのに。」
 口惜しいわ。私がそう言うと、睦月はいつからそんなに学校に通うのが好きになったの、と言って笑った。私が一年生、睦月が六年生の時にほとんど私が学校に行かなかったことを言っているのだ。
 実際、私が本当に問題にしているのは零と一緒に学校に通えるかどうか、ということではなかった。そもそも私だって小学校には一年の半分も行っていないのだ。問題は、学校に行かなくなった後、たった一週間の間に零が変わってしまった、ということだった。
 突然乱暴になった、とか、ひどい言葉を使うようになった、とかそういうことではない。零は相変わらずやさしくて、いい子で、絵が上手で、きれいな黒髪をしている。しかし、もう以前のようなお日様の匂いがしなくなってしまった。ニコニコといつも朗らかだった私の小さな弟は何かを考え込むような表情をしたり、どこか遠くをボンヤリと眺めたりする時間が長くなった。話しかければ穏やかに返事をするし、笑いかけてもくれるが、その微笑みはもう、以前とはまるで違うものになってしまっていたのだった。
「そう言うなら朔ちゃんさ、」
 ふいに睦月が口を開いた。
「中学、うちの学校に来なよ。」
 とんでもない睦月の発言に私は笑ってしまう。
「私が睦月の学校に?そんなの、出来るわけないじゃない。」
 睦月が通う学校は中高一貫の名門校で、規律正しく由緒ある学校なのだと聞いていた。私の反応に睦月はそうかなあ?と首をひねる。
「朔ちゃんなら入学試験なんて余裕でパスできるよ。」
 たしかに、私は勉強がよく出来た。学校にはほとんど行っていなかったが、その代わりに家でしっかり勉強しているので学年的には小学校六年生でも、もう中学生の内容だって理解していた。入学試験は余裕でパスできるだろう。
「そういう問題じゃないの。分かるでしょう?」
 私がそう言うと、にこやかだった睦月からすん、と表情が消えた。その凛とした表情が、私の記憶にある父親の顔ととてもよく似ている、と思う。
「同じ学校に通える、最初で最後の一年。なのに?」
 キン、という音が聞こえてきそうなぐらい冷たい響きをもった声だった。睦月はたまに、本当にごくたまに、こういう表情を見せる。そしてそういう時、私はしばらく睦月の静かな瞳から目をそらすことが出来ないのだった
「だ、だって私……」
 口ごもる私に睦月は視線をふっと緩めた。いつもの、穏やかに微笑む睦月の顔だ。
「中学と高校で先生も被っているし、行事も一緒だから。学校の話が出来たら、きっと楽しいだろうなって思ったんだ。」
 もし良かったら考えてみて。睦月のやさしい声に私は「分かった」と答え、ココアのお礼を言うと睦月の部屋を後にして隣に並ぶ自分の部屋に戻った。
 話をする間、睦月はベッドに腰かけ、私をいつも自分が使っている机の前の椅子に座らせた。ベッドに座らないこと——それが、睦月の部屋でのルールだった。
 睦月が使っていた電気ケトルは、かつて父の部屋にあったものだ。いつの間にか出来ていたコーヒーコーナー。睦月は甘い飲み物があまり好きじゃないから、ココアは私や零が来た時のために用意してくれている。

 五歳で零が生まれた時、私は今度は五年後に女の子が生まれてくるものだと思っていた。新しく女の子がやってきて、我が家は男三女三でちょうどよくバランスがとれるのだと。しかし実際には、五年後、私が十歳の時に女の子は生まれてこなかった。その代わり。
 その代わり、父親がいなくなった。女が一人増える代わりに、男が一人減る。
こうして我が家は男二女二のバランスのとれた家になったのだった。



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3話

4話

5話

6話

7話

8話(最終話)


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