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クラクションは霧の中で 2話

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(睦月二十五歳 朔ニ十歳 零十五歳)

 あの時どうして僕に話しかけたの、といつか尋ねたことがある。たしか目黒のこじゃれたバーに並んで座っていた時のことだ。彼女は幼い見た目に似合わない優雅な仕草でレッドアイのグラスを置きながらクスクスと笑い、そして答えた。こんなにも月のきれいな夜なのだから、という理由で何か大胆なことをしてみたかったの、と。
「月見バーガーを食べたことはある?」
 池袋のパスポートセンターでパスポートが出来上がるのを待っていると、ふいに頭上から声がした。顔を上げると目の前に立つ少女が僕を見下ろしている。ふわふわとした長い髪は色素がうすく、ジャンバースカートからのぞく細くまっすぐな足は透き通るように白く、その外見は欧米の血が混ざっているのではないかと思わせるものだった。
「え?俺?」
 数秒の沈黙があった。まさか自分が話しかけられているとは思わなかったのだ。僕が慌ててそう言うと、彼女は黙ってこくり、とうなずいた。
「な、ない……けど……。」
 戸惑いながらもそう答えると彼女は、
「私も、ないの。」
 と言ってじ、と僕の顔を見つめた。瞳は黒く、長いまつげに縁取られて純に美しい。その時僕は彼女の瞳から目をそらすのがなんだかとても切ないことのように思えた。
「ええと……。」
 少しして、その瞳に導かれるようにようやく僕は口を開いた。
「じゃあ……一緒に食べに行く?」
 僕がそう言うと少女はまた黙ってこくり、とうなずき、そしてフフフと楽しそうに笑った。
 僕の二つ後に彼女の番号が呼ばれた。あまりに彼女が幼く見えたので最初は信じられなかったが、近くのマックに入って注文をし(彼女は注文の仕方を知らなかったので僕が二人分頼んだ)席に落ち着いてから出来上がったばかりのパスポートを見せてもらうとたしかに彼女は二十歳だった。僕の、一つ下だ。
「サク?」
「一日、の朔よ。私、二月一日に生まれたの。」
 そう言いながら彼女は紙ナプキンに朔、という漢字を書いてくれた。目の粗い紙ナプキンに美しい字がじんわりとにじんでいく。
 肝心の月見バーガーは彼女の小さな一口をつけられただけで脇に追いやられてしまっていた。そのことに関して何か言うこともなく、ただ淡々と一〇〇パーセントリンゴジュースをストローから吸い上げる彼女に、僕はポテトをつまみながら自分のパスポートを差し出した。(店を出てから聞いたのだが、彼女はこういったファーストフード店の類いに入るのが初めてだったらしい)。自分だけが相手のパスポートを見るのは、なんだか悪いような気がしたのだ。
「郁茉?かぐわしい、茉莉花?」
 素敵。そう言って彼女はやわらかな花の香りで満たされたようにふっくらと笑った。その顔を見ながら、僕はそうか、と思った。僕の名前は、そんなにもやさしく美しいものだったのかと。今更ながら。
 僕はポテトをつまみながら、彼女はリンゴジュースを飲みながら、お互いの話をした。朔は、中学高校と学校に行っていないらしく、高卒認定をとって入った短大を今年の春に卒業したらしい。四年制の大学に入らなかったのは、「四年間も大学で勉強することがあると思えなかったから」で、短大を卒業した今は「二年でも長かったと思っている」と言った。
「留学でもするの?」
 パスポートをとった理由を尋ねると彼女は首を横に振った。
「私が行くんじゃなくてね、弟が行くの。叔父と世界を回るんですって。ほら、パスポートがあれば何かあった時すぐに駆け付けられるでしょう?」
 それに、と彼女は続けた。
「もう学生じゃなくなったから身分証明書として持っておきなさいって。兄が。」
「運転免許はとらないんだ?」
 僕はそう尋ねると少し残しておいた月見バーガーを口に入れた。かたく、プラスチックのように味のしない卵を少し強めに咀嚼する。
「運転免許?」
 彼女はそんなこと考えたこともなかった、というように目をみはってから、クスクスと笑った。
「あんな恐ろしいもの、運転なんてできっこないわ。」
 翌週、僕はボードを抱えてカナダに飛んだ。ウィスラーの雪は日本のスキー場の人工雪と全く違った。日本の雪は液体が固体になったもの、というのが分かるがここの雪はどちらでもなく、ふかふかとして、ボードが斜面に吸い付くようになめらかに前へ前へと進んだ。木々の間を滑り抜けていると、雑然とした東京での生活が全てフィクションか、あるいは昨日見た夢の中の出来事のように思えた。
 五日間、早朝から夕方まで滑り続け、夜は泥のように眠った。バンクーバーから八時間かけて深夜の成田に帰ってきた時には身体はもう朝なのか夜なのか分からなくなっていたが、ラゲッジを回収すると僕は迷うことなく真っ先に電話をかけた。時差ボケの頭は奇妙なぐらいに冴えわたっていた。
「こんばんは、郁茉。どうしたの?」
 朔は深夜だというのに驚く様子もなく電話口で朗らかに言った。
「朔。」
 僕は考える前に口を開いていた。
「会いたいんだ。」
 電話の向こうでふっと息がゆるむ音がした。彼女があのふんわりとした微笑みを浮かべているのだと分かった。
「私もちょうど、そう思っていたの。」
 彼女は僕を喜ばせる言葉を選ぶのが、本当に上手だった。

 照りつける太陽に隠れ場所のない坂道を上りきったところで地図を確認する。首筋と二の腕、それからカッターシャツの下の背中を汗がつたっていくのが分かった。
「おうちに遊びに来て。」
 彼女がそう言うからてっきり一人暮らしのアパートかと思いきや、指定された住所を目指して歩いていくと閑静な高級住宅街に入った。とてもじゃないが、一人暮らし向きのアパートやマンションがある気配はない。
 案の定、地図アプリが赤く示した地点に辿り着くと、そこは高台に建った古くて大きな西洋建築の屋敷だった。複雑な曲線を描く飾りの施された門の向こうにはささやかなイングリッシュガーデンがあり、さらにその奥にある重厚な木で出来た観音開きの玄関は木とツタに囲まれている。レンガの壁にシンメトリーに配置されたたくさんの窓はすべて白の鎧戸で縁取られていて、大正モダンの西洋建築然とした邸宅だった。
 しばらくその立派な屋敷を呆然と眺めてから、何かの拍子でハッと我に返りようやく門のところにあるインターフォンを押した。
「いらっしゃい。玄関へどうぞ。」
 インターフォンから聞こえてきたのは男性の声だった。実家、ということは父親の可能性ももちろんあるが、この家に限ってそれはない。朔の父親は彼女が十歳の時に亡くなったと聞いていた。
「代わりに五つ上の兄と五つ下の弟がいるの。」
 いいでしょう。そう話した時、彼女はそれが素晴らしいことだと微塵も疑う様子なく自信たっぷりに言った。僕は兄も弟もいないのでよく分からなかったが、「それはいいね」と答えた。実に軽薄な、返事だった。
 玄関前の階段をのぼり、ドアの前に立つとゆっくりとドアが開いて見慣れた顔が現れた。僕はいつもと変わらない彼女の姿にようやくホッと息をつく。
「いらっしゃい。暑かったでしょう?」
 そう言う朔は茶色い長袖のブラウスに黒のロングスカートで涼し気な顔をしていた。
 ダイニングに通され、「冷たいお茶をお出しするから待っててね。」と言って台所に朔が消えた後も僕はしばらくその家の風格に気圧されながら落ち着きなくきょろきょろとあたりを見回していた。大正浪漫を感じさせる和洋折衷のインテリアはどれも清潔でありながらとても古い。人間の身体をしっかりと受け止める椅子にぎこちなく身を預けていると、台所からお盆を持った朔と、デカンタを持った背の高い男が一緒に出てきた。朔と同じく肌は白いがどちらかといえば不健康な青白さで、丁寧に袖を折って着ている黒のワイシャツがそれを一層際立たせていた。サラサラとしたきれいな黒髪は清潔に短く切りそろえられている。見た目の年齢から考えて、朔の兄だろうと分かった。
「あのね、睦月がアイスフレーバーティーを作っておいてくれたの。」
 そう言う朔のお盆にはグラスとコースターが三つずつ、のっている。朔は僕の正面に、そして朔の兄は彼女の左隣に座った。
「あ……えっと、はじめまして。朔……さんとお付き合いさせていただいてる…吉田郁茉です。」
 慌てて立ち上がりあいさつをすると彼は静かに、本当に音一つたてないような静かさで微笑み、その黒いシャツからのぞく白い腕を僕に差し出した。
「はじめまして。噂はかねがね、朔ちゃんから聞いています。兄の睦月です。」
 僕らのぎこちない握手を、朔は両手で頬杖をつきながらニコニコと幸せそうに見上げていた。
 それから僕たちはアイスティーを飲みながら世間話——僕の就活のことだとか睦月さんの仕事のこと、僕の家族のこと——などを話した。後から思えば、ほとんどは僕の話ばかりで彼らのことを聞く隙はほとんどなかった。僕に質問を投げかけるのは主に睦月さんで、彼は当たり前のようにそこにいて、当たり前のように、会話の中にいた。
「ああ、そうだ。忘れるところだった。今日来てもらった理由がね、あったの。」
 世間話も尽きたころ、朔が思い出したように言った。
「あのね、別れて欲しいの。」
 彼女はまるでうたうように、それこそただの世間話の延長のようにそう言ったので、僕は最初、彼女が何を言ったのか分からなかった。
「え……?」
 睦月さんは驚く様子もなく静かに僕を見ていた。そしてやはり当たり前のように、そこにいた。
「あら、どうして泣くの。」
 朔がやさしくそう言った時、僕は自分が泣いていることに初めて気が付いた。頭の中ではどこかでまだ、これは朔のひどいいたずらなんじゃないかと(実際彼女は他愛のないいたずらが好きだった。あくまで、他愛のない)、思っていたのに感情が直感的にこれが嘘でもなんでもない、二人の終わりなのだと理解していた。テーブルを囲んでいるのが彼女と僕、ではなく、彼女と僕と彼女の兄、というとんちんかんな状況であったとしても。
「この関係が永遠に続くと思っていたわけじゃないでしょう?」
 朔の言葉には悪意が全く感じられず、感じられないからこそ、その麗らかなことがとても残酷に思えた。そしてそれが決して覆らないこともまた、確かだった。
「……なんで。」
 少しの沈黙の後、僕は涙を乱暴にぬぐいながら口を開いた。
「なんで睦月さんをこの場に呼んだんだ。」
 外で別れ話をするよりは、家がいい。それは分かる。ただどうしてその場に兄が同席する必要があるのか。そんなことを尋ねてしまう程度に僕は凡人で、だから彼女が欲しかった。
「僕が、ゴネたり君に乱暴するとでも、思っていたの?」
 僕の質問に彼女は心底驚いた顔でそんなわけないじゃない、と言った。
「別れる前に、睦月に会ってもらいたかったの。」
 本当は弟にも会ってもらいたかったんだけど今バルセロナにいるらしくてね、電話でお話する?って聞いたんだけど、ほら、時差があるでしょう。零ったらね、おかしなこと言うのよ。昨日もね……
 朔の言葉を僕は途中から聞いていなかった。ただ、僕は分不相応なものに手を伸ばしてしまったのだということだけが、明らかだった。太陽に手を伸ばして、焼け死んでしまったのだと。
「零くんに会えなかったのは残念だけど、僕はここでお暇するよ。」
 この後予定があるんだ。朔の話を遮って、声が震えないようにそう言うのが精いっぱいだった。
「あら、もう?」
 朔はあからさまにがっかりした顔を見せた。睦月さんは変わらず静かな表情で僕をじ、と見ていた。
 広々とした玄関で二人に見送られ、僕はその屋敷を後にした。朔は最後に「さようなら。元気でね。」と言った。僕も同じ言葉を返した。睦月さんは黙ったまま、静かに微笑んでいた。僕は頭を下げなかった。それらはただの友人同士の別れの挨拶としてカランと軽やかに響いた。
 熱を帯びた門扉を押し開け路上に出ると、一気に湿度の高い熱気が僕を包んだ。外の、現実の空気だ。立派な西洋建築の邸宅を改めて振り返って見る。太陽の位置はこの家に入った時と大して変わっていないようだった。あの家の中であんなにも長く感じた時間が現実では大して経っていないようで、僕はこの家に何か恐ろしいものを感じた。
 ふと二階の窓を見上げると睦月さんが窓辺に立ってこちらを見ていた。彼の姿を認めたその瞬間、僕は腰から背中へ鳥肌が一気に駆け上ってくるような嫌悪感を覚えた。窓辺に立つ睦月さんは、笑っていなかった。先ほどまでからは信じられないくらい、冷たい冷たい目で僕を見下ろしていた。
 まともじゃない。僕はその奇妙な家に背を向けそそくさと逃げるように坂道を下った。一度も振り返ることはなかったが、彼の射るような視線がいつまでもいつまでも高いところから突き下ろされているような気がした。
 あの時、どうしてもう一度僕に会ってくれたの。いつだったかそう尋ねたことがある。彼女はいつものクスクス笑いをしながら答えた。
「名前が素敵だったから。」
 それを聞いた時、僕は自分の名前をつけてくれた両親に心から感謝した。でも今は。
 坂道の下で最後に一度だけ、振り返る。一番高いところにそびえ立つ立派な邸宅はまだ見えているが睦月さんの姿はもちろんもう見えない。その家から顔を背け、平坦になった道を左に曲がりながら僕は思う。
 次は茉莉花なんて花を知らない女の子と、付き合おう。



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