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クラクションは霧の中で 5話

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(睦月三十五歳 朔三十歳 零二十五歳)

 最近、嫌な夢をよく見る。その内容は全く覚えていないのだけれど、起きた時の気分は最低で、不愉快で、ただひどく嫌な夢を見た、ということだけ覚えている。
 その感触だけがあって具体的な記憶がないというのが気持ち悪く、目を覚ました時にすぐにメモをとろうと試みたことがある。目が覚めた瞬間の夢の記憶はまだ鮮明だった。私は忘却の波に追いつかれないよう必死で、ひたすら手元のノートにペンを走らせた。「何よりも大切なのは、」そこまで書いたところで目が覚めた。一体何が起きたのだか分からず目を覚ました私は天井を見つめたまましばらく唖然としていた。ノートとペンなんてどこにもない。もちろん、書き留めた夢の内容なんて覚えているはずもなかった。覚えているのはノートの最後の一行、「何よりも大切なのは、」だけだ。一体何が大切なのかは、もう分からない。そもそも寝起きでノートとペンをすでに持っているという状況からしておかしいと気付くべきだった。夢、というのは大体がそういうものではあるのだが。
 何かを、忘れている。何か、大切なことを。そんな気がして仕方がなかった。
「いいですか。普通の人の一〇〇パーセントがこのくらいとして。」
 医者はそう言って自分の手をななめ上にかざした。
「貴女は今、このぐらいなんです。」
 そして自分の座る椅子よりもずっと下まで、手を下ろす。
「一〇〇ある人が疲れて七〇になっても休めばすぐに戻りますが、貴女は今、薬と休養で少し戻ってもすぐに使い果たしてゼロになってしまうんですよ。」
 現に今、眠れていないんでしょう。医者の質問に私は「はぁ……。」と曖昧な返事をした。
「でも昼寝はしています。」
「普通の人は夜、眠るんですよ。」
 小学生でも知っていることを、今更諭されるとは思っていなかった。
 胃腸科に紹介されたこの病院に通い始めて一カ月半、三度目の診察の日だった。
 初診の時から一貫して私は自分のどこを病人扱いされているのか分からず、医者との話は噛み合わないまま時間だけが経っていた。診察の度に処方される薬の量は増え、お薬手帳(公式の名前に「お」がついているためか真面目な顔の薬剤師が「おくすり」と言うのがかわいくて好きだ)のシールに印字される文字だけがたしかな成果のように細かく、その密度が高くなっていく。
「あの、」
 私はおずおずと口を開いた。
「休むって、一体何をすればいいんでしょうか……?」
「薬飲んで、布団被って、寝ることです。」
 絶対安静!と医者は鼻息荒く言った。
「一日中寝るんですか?」
 私にとってそんなに恐ろしいことはなかったが、医者はさも簡単なことのようにあっさりと答えた。
「そうです。」
「それじゃあ……」
 私は戸惑ってしまう。一日中寝るなんて、普通の人がやることじゃない。
「それじゃあ、病人じゃないですか。」
「病人なんですよ。」
 外出は徒歩二時間圏内で、とにかく休んでください、という医者の言葉に私は二時間も歩いて一体どこに行くと言うのだと思いながらひとまず「はい。分かりました。」と素直に返事した。
 この医者にかかり始めた時、叔父にそのことを話したら
「そんなところにまじめに通うなんて、馬鹿らしいったらないよ。」
 と言って笑われた。
「だって奴らは、とんちんかんなことしか言わないだろ?自分たちの持っている型に患者をあてはめようと必死なのさ。」
 それで少し、私は意地になったのだ。叔父の指摘はもっともだったが、私は未だに彼に対して零を連れ出した恨み(もちろん感謝もあるが)を少なからず持っていた。その意地のおかげで三回目の通院を達成したが、それももう終わりかもしれない。
 受付で診察料を払い、領収証と処方箋をもらう。彼らはとんちんかんなことしか言わないくせに「精神科専門療法」という名目でお金をたんまりととっていて、診察料は風邪をひいた時よりも蕁麻疹が出た時よりも高い。エレベーターを待ちながら領収証の下に隠すように渡された処方箋に目を通すと、薬の種類がまた増えていた。
 私が欲しいのは、夜眠れる薬じゃないのにな、と思った。私が欲しいのは、眠れない夜でも零がいて、睦月がいて、三人で真夜中に睦月が焼いたお菓子を食べるような、あの日々なのに。
エレベーターがポーンという音とともに到着する。誰もいない小さな箱に私は一人で乗り込み、一階のボタンを押す。心療内科医ほどこの世の中で信用ならない職業はない。そう思いながらも私は結局、律儀に斜向かいの薬局へ行ってお薬手帳を出し、新しい薬の説明を聞くのだ。
「お大事に。」
 そう言って見送られながら、ただ胃腸の調子が悪かっただけなのに随分とこんがらがったことになってしまったな、と思った。
 薬局を出ると空はどんよりとした曇り空でコートを着込んだ人々が冷たい空気の間をすり抜けるように足早に歩いていた。私はその人々の流れにうまく合流して、流れ、駅に辿り着き、京浜東北線に乗って、有楽町駅で降りた。(途中、スマホで有楽町は徒歩二時間圏内にあるのか、一応調べながら)今日は久しぶりに、女友達に会う日なのだった。
「結婚ってやっぱり難しかったわ。」
 女友達はそう言うと、冬季限定の大きなオムレツをフォークとナイフで豪快に切り分け、大きな一口で、しかしホワイトソースを口の周りに全くつけることなくほおばった。後ろで束ねた長い髪は落ち着いたダークブラウンになり、黒のタートルネックにバーガンディーのタータンチェック柄のフレアスカートにヒールの控え目なブラウンのロングブーツを合わせている。
「後悔しているの?」
 私もオムレツをナイフで切りながら尋ねた。彼女が食べたい、と言うので並んだその店のオムレツはたっぷりのホワイトソースに蕪、レンコン、それから牡蠣が添えられていてオムレツはオムレツでもとてもゴージャスなオムレツだった。卵はきっと四個は使われているだろう。
「まさか。」
 私の質問に彼女は大げさに首を横に振った。ぶんぶんと音が出そうなくらいに。
「だって結婚しなかったら、この子を手に入れることは出来なかったもの。」
 ねー、と小さく傍らのベビーカーをのぞきこむ。中では小さな小さな生き物がすやすやと眠っている。その小さな生き物の存在と、その子を見つめる彼女の眼差しが、ここ数年での彼女の一番の大きな変化だった。会って早々、その生き物に驚く私に「抱っこしてみる?」と彼女は聞いたが、それこそぶんぶんと音が出そうな勢いで首を横に振って断った。そんな恐ろしいこと、出来るわけがない。
「でもやっぱり、ある日この人のこと好きじゃないんだなーって気づいちゃったのよねえ。」
 困ったことに。そう言ってアイスティーをストローで吸い上げる姿は今までと全く変わっていなくて私は小さく笑った。
「決め手はなんだったの?」
 元夫と結婚した。私が聞くと彼女は私の背後、壁よりもずっと遠くを見ながら言った。
「牛や豚は食べていいのに、犬や猫はなぜ食べてはいけないのか。」
「何、それ?」
「昔読んだ本にそんなことが書いてあったのよ。もしこの人でいいのかなって迷ったらこの質問をして、その答えを聞けばその人でいいかどうかが分かるって。」
「で、元夫はなんて?」
「分からないって。」
 その潔い答えに私は笑った。彼女も笑った。二人でクスクスと、少女同士のように笑った。
「私も分からないわ。」
「その本、なんて答えてくれることを想定してたわけ。」
「さあ。」
 そんなことを真面目に書いている本も、それを律儀に実行する女友達も、滑稽に思えて仕方がなかった。
「まわりの人にはね、」
 笑いを抑えながら彼女は再び口を開いた。
「どうして結婚したの?なんで離婚したの?どういうつもりで子供つくったの?っていっぱい聞かれたわ。でもね。」
 そこで一度言葉を切り、ふーと長くゆっくりと息を吐いた。
「人はなんでも分かりやすい因果関係を求めるけど、自分が意識して分かる自分の心なんて、ほんの一部だと思わない?」
「そうかもね。」
 私はそう言ってから最後の一口になったオムレツにたっぷりとホワイトソースをからませ、ほおばった。彼女のようにはうまくいかず、口の端にホワイトソースが付いたのが分かる。口元をナプキンで拭うと、やはりホワイトソースがついていた。
 それからしばらく他愛のない話——最近の映画がどうだとか共通の知人の噂話だとか短大時代の思い出話なんかをした。思い出話というのは、会う度に何度も何度もしていても飽きることはないものだ。
「さて、と。」
 十四時半きっかりになったところで私はコートを鞄を持って立ち上がった。
「私そろそろ行かなきゃ。」
「なぁに?何か用事があるの?」
「これから教習所なの。」
 えぇー、と女友達がのけぞるように大げさな反応をするので私はまたクスクスと笑った。子供が出来て、彼女は今まで以上に益々表情豊かになったようだった。
「聞いてないわ。」
「言ってないもの。」
 そして彼女のそんなところも、好きだな、と思った。

 極大は昨日だったんだっけ、と思いながらバルコニーのスツールに腰かけてうすく曇った空を見上げた。待ってはみるけれど期待は特にしていなくて、夜に浮かびあがる自分の足が思いの外白くうすぼんやりと光って見えることに驚いたりしている。
 星を見るのが好きだったのは零で、私も睦月もそれに付き合って一緒に夜空を見上げていた。零が何度星の結び方を教えてくれても、私はそれを覚えることができなかった。それでも流星群極大の夜に空を見上げるのは、零がこの家からいなくなった後も一つの習慣として残っている。
 彼はきっと今頃もっと美しい星空が見えるところにいるだろう。十九歳で帰国してから彼はバイト漬けの日々の中でお金を貯め、去年の秋から(叔父の支援も受けながら)アイスランドでスープ屋を開いた。アイスランド、という国の突飛さに私は心底驚いたが彼の中にはその国をおいて他にない、と思うほどに気に入った土地だったらしい。
「アイスランドの人は、感じのいい人が多い気がする。いい感じの人、じゃなくて、感じのいい人。」
 寒い国だからかな。弟は歌うように言った。寒い国だから、教養深くて思いやりがあるのかもしれない、と。
「雪深い、寒い夜道を歩いてくるとするだろ。そしたらうすぐらい雪の中にあたたかな光を見つけるんだ。彼らは思わずそのピスタチオグリーンのドアを——あ、ドアはピスタチオグリーンにしようって決めてるんだけどね——押し開ける。そしたら僕はカウンターの中から言うんだ。『ひどい雪で寒かったろ?あたたかいスープを飲んでいきなよ。』彼らは具だか汁だかわからないぐらい具沢山のスープを飲んで、お腹の底からあたたまって、そこでようやくひと心地ついてゆっくりと息を吐くんだ。それを、そんな彼らの表情を、僕は何よりもほんとうだと思う。」
 他にも旅をしていた時にお世話になったゲストハウスを手伝ったり日本人の観光ガイドをしたりと細々とした仕事を忙しくこなしながら、なんとか生計を立てているらしい。我が弟ながら、器用なことだ。私は、自分の弟がそんなことを出来る子だとは思っていなかった。旅から帰ってきた零は私よりもさらに背が高く、声も低くなって、相変わらず痩せていたが少年のような線の細さはなくなっていた。彼はもう、確実に小さな弟ではなかった。
「ごめんね、朔ちゃん。」
 アイスランドに行く、と言った零はまたそう言った。
「何を謝るの。」
 私はそう言いながらも涙が後から後からあふれてきてどうしようもなかった。
「行かないで。」
 かすれた声でようやくそう言うと、零はまたごめん、と謝りながらそっと私を抱き寄せ、大きくなった右手で私の頭をポンポンと撫でた。「ごめんね。」
 ここにはいられない。その声で、彼もまた泣いているのだと分かった。どんなに大きくなっても、どんなに身体がゴツゴツとしても、どんなに声が低くなっても、零はやっぱり私の小さくてかわいい、弟なのだ。
「お盆には必ず帰ってくるから。」
 約束通り、零は八月の下旬に早速帰ってきてレンタカーで海に連れて行ってくれた。紫外線が強く肌に穴を開けそうな勢いだったが私たちは水着姿で泳いだ。私はその日のために買ったピスタチオグリーンのワンピース型水着で、零は紺色のハーフパンツの水着で。私たちは昔となんら変わらない純粋さで泳ぎ、疲れたらしばらく全身の力を抜いてぷかぷかと浮き、すぐにまた泳いで、を繰り返した。素晴らしい一日だった。こんな日がずっと続けばいいと思った。しかし、九月になる前に零はまた氷の国へと帰って行ってしまった。

 しばらく待ったが、星はとうとう流れなかった。代わりに遠くに見える家の窓がちかちかと点滅しはじめた。気になってしばらくじっと見ていたが数分後には消えていた。再び暗闇を取り戻すと、遠いと思っていたのが本当は近かったのかもしれない、と感じられた。
 ポケットに入れたスマホが小さく震えてメッセージが来たことを知らせる。スマホを取り出すと暗闇に慣れた目がその光の過剰なことに驚いて反射的に逃れようとする。メールはもちろん、零からだった。彼は今も毎日律儀にメールをしてくれる。
 スマホから顔をあげスツールから立ち上がる。中に入って何かあたたかいものを飲もう、と思った。身体がだいぶ冷えていた。
 件の家の窓が再び、点滅を始めていた。

 睦月の部屋のコーヒーセットでコーヒーを入れながら私は睦月に話しかけた。
「零からメールが来てたわ。アイスランドは今年は例年にないくらいの豪雪になりそうなんですって。道路が封鎖されたら大変ね。あの国って、あの大きな環状道路しかないでしょう?」
 睦月は返事をしなかったが私は構わず続けた。
「そういえば今日、流星群極大の日だったのよ。覚えてた?さっきしばらく待ってみたけど曇ってて全然見えなかったわ。」
 ドリップしたコーヒーからいい香りがたちのぼり、部屋じゅうに満ちた。
「流星群といえば、覚えてる?零が十二歳の時だったかな、睦月の運転で三人で九十九里浜にふたご座流星群を見に行ったわよね。夕方に出発して、うみほたるに寄って、アウトレットモールに寄って、私は服なんて買うつもりなかったのに二人にのせられてモスグリーンのタートルネックのワンピースを買っちゃって。あとなんだっけ、あのチョコレートドリンク……ショコリキサー!あれはうっとりするほど美味しかったわね。
 三人ともずっと高揚してて車の中でかけたビリージョエルをみんなで大合唱したりして。とにかく愉快でたまらなかった。なのに夜も大分深くなっていざ流星群を見るぞ、って時になって砂浜に行ったら曇っていて星が全然見えなくて。零があまりにがっかりしているからどうしたものかと思ってたら睦月が車から花火セットを出してきたのよね。あれはびっくりしたな。睦月がそんなもの用意してるなんて、知らなかったから。」
 冬、冷たい夜の海辺でする花火は馬鹿みたいに楽しくて、それで、美しかった。
「それで最後、三人で線香花火をしていたら合図したみたいにみんなの明かりが同時に落ちて、何故だか三人ともふと空を見上げたのよね。」
 するとその瞬間、雲と雲の隙間を縫うようにして鮮烈な光が走ったのだ。「みた?」「みた。」「みたみたみた!」
 私たちは興奮して手を繋ぎ合って喜んだ。冷たいその手が熱くて、魔法みたいな夜だった。
「ねえ睦月。」
 私は二人分のマグをもってベッドの横の椅子に腰かけた。カップの一つをベッドのサイドボードに置き、一つを両手で包むように持つ。
「あんな日は、もうこないのかしら。」
 だから、魔法なのかしら。
 睦月は答えない。睦月はそのきれいな顔のまま、静かに眠っている。
 私が二十五歳の時、睦月は長い長い眠りについた。それから五年間、彼は目覚めることなくずっと眠り続けている。

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