自己は必要か?不要か?

結論を先にいうと、ある程度(期間)必要

なんやねんその中途半端な回答。という声が聞こえてきました。笑

ただ、実体験として、自己を持たないと耐えられない。他者と仲良くなれないと思ってしまうような瞬間がありました。

賢い大人の方達は、勝手に自己を手にしているのかも知れませんが、

自己はいらないということを賢い方々が言われているのを聞いて、

少し自分は違う意見だなと考えたのです。

今日は自己と自立共生(スギの話)について話そうと思います。

まず、自己とはなんなのか。

自己とは無我の反対のような言葉で使われています。

無我は仏教の基本的な考え?だったはず。

つまり、自分は存在しないと、、

自分を意識する分、無駄だ、悩みが増え、雑念や欲が生み出される。

だから無我でいる。


自己はこれの逆です。

自分は存在していて、自分の好き嫌いや個性を磨いていくべきだ。

まぁ広くいうとそんな感じ。

で、僕の意見は期限付きで自己は必要。ということ

じゃぁそのラインは何処なのか。自己はどこでいつまで必要なのか。

僕は、環境の入り口に自己がいると考えました。

変化に自己が必要だということ、

新しい環境に入る時、自分を持っていないと、

自分を表現しないと押しつぶされそうになったり、

理解してもらえないまま関係が途切れてしまう。

例えば田舎に移住した時、自分はどんなやつでどんなことをしてきて、ここに来たのか。

これが言えない人はほぼ村八分のようになると聞いたことがある。

僕は田舎に移住したことがないけど、大人ばかりの環境に行った時、

自分がどんな人なのか(自己紹介が下手なんです。。)どんな夢を持っているのか。
何に困っているのか。何が好きで何が嫌いか。


こういった自分の意見を強く求められる

自分を主張しないと、相手も勿論分からない。

自己を持ってこそ、他者と良い関係を気づけるのだと気づいた。

個性というと、ファッションとかの表面的・外的な要素を思い浮かべるかもしれないが、

僕が思う個性は内面的なもの。

内面で個性を表していくことは初めのうち意識しないとできないと感じた。

自己が芽生えてこそ、他者との関係性が見えてきて、無意識の状態で自分を話したりできるようになる。

無我になる

つまり、共同体の一部に入れる。

そして最終形態として、新たな意識が生まれる。(統合された意識。全体で1人みたいな感覚)
信頼しきった状態。

家族も代表的な例だと思う。

そういう共同体を作りたいと聞かれれば、そうでないと答えてしまう。

全てはバランスなのであると思う。

そのバランスのちょうど良いところを自分の体験や経験を今後さらに深めていく中で、

探していきたい。

スギの話

今の理想の共同体イメージ

現段階では、山に在るスギたちみたいなイメージ

お互いに干渉しない良い距離感を保ちつつ、めっちゃ近いやつもいて、

それでも完全にくっつくようなことはしない

元々自分を持っているから堂々と自分の位置に居座っている。

けれど、人間でいうと精神的な、見えない根っこの部分では、繋がっていたり、お互いに与えたいという欲があって、

その欲が高次元(木の一番高い部分)に行き、他のモノたち(風とか)の力を借りて、葉っぱを揺らして、喜んだり、癒しを与えたり、広い心を持つ。

それが今の理想のコミュニティ像。

スギの木=人間の比喩表現

他のモノたち:他のモノたちは人間に対し自然やテクノロジーといった存在

そういうコミュニティ形成を大学在学中にできたら最高だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?