【教師残酷物語】第10話「嫉妬」(井本先生58歳/国語科)
井本真悠子先生(58歳/高校国語科)は感情表現が豊かな方だ。気さくな話しぶりには人の心を和らげる空気感がある。時折でてくる教師らしからぬ口の悪さもその一端と言える。話し方自体には気の強さがにじみ出ているが、声には細かな抑揚がある。だから、話術に長けた人なのだろう。国語の授業では、綺麗な音読ができるタイプに見える。
しかし、彼女は鬱病の診断を受けた。そして、半年間の休職を余儀なくされた。いや、正確に言うと、2週間の出勤停止と半年間の休職だ。明るく活発な彼女の雰囲気からは想像できない話である。
井本先生のケースを語るのは複雑だ。絡まったあやとりを解きほぐさなくては……。しかし、なぜ、教育の現場で「あやとり」は“絡まった”のか……。
井本先生は国文学科を卒業後、アメリカ・ニューヨークへ留学した。2年間、語学と文化人類学を学んだ。彼女の気さくな人柄と自由奔放な立ち振る舞いは、アメリカ文化にマッチしていたのだろう。留学中には数多くの友人ができ、実に有意義な時間を過ごした。いや、もしかしたら、アメリカでの経験が、今の彼女の人柄を形成したのかもしれない。帰国後は日本語学校の教師となり、外国人に日本語と日本文化を教える仕事をした。そこから、国語の教師となり、今に至る。
国語の教師としては異色のキャリアと言っていい。免許さえ取れば、英語の教師もできただろう。しかし、彼女は「人間」を説くことに教育の軸足を置いている。
彼女にとって「国語」はどうでもいいらしい。大事なのは「個人」と「人生」の在り方だ。そしてそれらをより良く形成するために、多くの人は「社会」と「文化」を学ぶ。だから、国語だの英語だの、日本人だの外国人だの、という括りはどうでもいい……。
示唆に富む話である。学力偏重主義が加速した現代において、稀有な先生かもしれない。「教科」よりも「教師」に軸足を置いた先生だ。
しかし、だからこそ気に入らなかったのだろう。井本先生を妬む教師もいた。
おそらく井本先生の人柄なのだろう。彼女は常に生徒から慕われていた。実際の現場をみたわけではないが、彼女の過去のクラス写真を見せてもらうとそれがわかる。慕われていなければ、写真の中の生徒たちはこんなにも輝くことはない。
彼女の言うことは、きっと真理なのだろう。
「好かれるためにはちゃんと嫌われる」
これは正しいロジックだ。しかし、そこが彼女の“運”の悪さを招いた。
「嫌われるからこそ好かれる」
だから、彼女は嫌われた。嫌われると、厄介な先生に……。
井本先生がグローバルコースの担任になったのは、異例だが適任だった。なぜなら、グローバルコースは原則として英語科か社会科の教師が担当するからだ。英語教育に力を入れ、海外志向を高めるためには、英語科や世界史、もしくは地理担当の教師が適任だ。だから、国語科が担任になるのは異例だ。しかし、彼女の場合は、留学経験がある。それが抜擢された理由だ。また、何よりも彼女の人柄や教育理念がグローバルコースには適していた。
彼女の気さくな性格なら様々なバッググラウンドを持つ生徒を包括できる。実際にクラス運営は良好にできていた。冬が来るまでは……。
「彼女」とは井本先生と同い年の社会科の教師である(以下A先生とする)。A先生は、井本先生のように留学経験があるわけではない。が、昔から国際情勢に高い関心を持っていた。担当教科は地理と世界史。時代の趨勢と共にグローバル教育の必要性を訴えてきた。そこで設立されたのがグローバルコースだった。しかし、担任はA先生ではなく井本先生だった。A先生は担任よりワンランク上の学年主任というポストに就いた。
話が事実であるなら、井本先生の受けた「嫌がらせ」は嫌がらせのレベルではなく、業務妨害と偽証罪のようなものだ。妬み・嫉みのレベルではない。明らかな実害が出るレベルであり、実際“事件化”にも至ってしまった。
発端は、学校現場ではよくある生活指導だった。
井本先生の主張は至極全うだ。しかし“組み合わせ”が悪かった。塩素タイプの洗剤で洗っている所に、酸性タイプの洗剤を撒かれてしまった。有毒ガス発生だ。
時間をかけるからこそ、聞き分けのない生徒でもいつかは“分かる”。それは話し合った時間をお互いに“分かち合った”からこそ得られる理解だ。だから、分かり合えない時間があろうとも、生徒とは丁寧に向かい合わなければならない。“分かる”とは互いに共有した時間を“分かつ”ことから始まる。それが井本先生の教育方針だ。おそらくこの発想は多文化共生社会であるアメリカでの留学経験に基づいている。回りくどいやり方かもしれないが、そこには確かな“説得力”がある。
しかし、そうやって時間をかけて行っている指導中に、第3者が横から入ってきたらどうだろうか……。
素人からしたら「適切な指導」と「行き過ぎた指導」の境目はわからない。しかし、現場の先生たちはそれがわかるはずだ。でなければ、教師としてふさわしくない。だから、井本先生も十分にわかっていたはずだ。しかし、井本先生は“あること”をわかっていなかった。それは『教師の敵は教師』という事実だ。
結果として井本先生の指導は「行き過ぎた指導」と判断され、井本先生は停職2週間という懲戒処分を受けた。
すでに言及したことだが、話が事実だとすると、これは「嫌がらせ」ではなく業務妨害と偽証罪だ。A先生は保護者に「鬱病の疑いがある」と連絡し、病院を受診させた。そして診断書が出た。診断書を持って、生徒・保護者の双方が学校にクレームを入れる。そして学年主任も「担任に非がある」と言う。そうすれば、管理職側はそれを認めざるを得ない。認めないわけにはいかない。なぜなら、担任団をまとめる学年主任もそう判断しているのだから。
話が事実なら、A先生のやり口は実に“うまい”。反発している生徒の心理と過保護な親の心理をうまく誘導させた手法だ。生徒・保護者の双方に担任のネガティブキャンペーンをしておけば、どれだけ担任が丁寧に話そうと、両者が和解することはない。“こじれ”続けるだけだ。そして、こじれ続ければ、その事実を以て管理職に「担任指導に問題あり」と報告できる。またこじれ続けることで“サポート”と称して学年主任も間に介入できる。そして、こじれ続けることで、成熟していない生徒のほうによりストレスがかかる。そこで診断書という“証明”をとってこさせる。汚い“漁夫の利”の完成だ。
しかし、事態は思わぬ方向に転がる。井本先生は生徒を鬱病にまで陥れたパワハラ教師として「懲戒処分 停職2週間」を通告される。しかし、そのあと、彼女の夫が学校相手に提訴したのである。正確に言うと、学校側に「提訴する」と訴えたのである。目的は妻の“名誉”を守るために……。
現実問題として言えば、状況証拠・物的証拠がない以上、裁判をしたら負けていただろう。どれだけ訴えたところで、生徒には診断書がある。学年主任は定期的に管理職に報告をしていた。どうしたって無理な話である。
しかし、井本先生の夫の意志は固かった。学校側は管理職の処分と引き換えに事態の“手打ち”を申し出た。結果は校長・副校長の「監督不行き届き」という懲戒処分。おそらく裁判の勝敗よりも、裁判をされた場合に生じる学校イメージの低下を恐れたのだ。
しかし、この中途半端な幕引きがさらに事態をこじらせた。他の教職員が事件に関する説明を求めたのである。懲戒処分は職員会議で全職員に通達される。しかし、その時、事件の詳細や原因の説明が不明瞭過ぎた。おそらく管理職は生徒を鬱病にさせた教師を処分することで、保護者からのクレームを収めたつもりだったのだろう。けれども、それでだけで同僚の教師たち全員が納得するわけがない。なぜなら、明日は我が身となるかもしれないからだ。会議は荒れた。
当然の疑問だろう。生徒から嫌われるのを覚悟で、生活指導をして「処分」されては堪ったもんじゃない。ほかにも、組織の体制に関する議論もあった。
一般企業であれば、部下の責任は上司の責任だ。だから、当然の指摘と言える。しかし、この時、管理職はお茶を濁すことで逃げ切った。それが管理職自身に対する「監督不行き届き」なる「処分」である。安易に考えていたのだろう。おそらく一刻も早く生徒・保護者からのクレームを処理したかったのだ。
しかし、不思議なのは学年主任だけが無傷な点である。
その後、井本先生は精神的に参ってしまい、2週間の停職後、鬱病となり、休職を余儀なくされた。学校側としては、騒動の鎮静化のため、井本先生の休職は都合が良かった。グローバルコースは担任が変わり、クラスの空気は悪くなった。代打の担任は、以前学年の副担任をしていた社会科の男性教諭である。彼は特に生徒に対して関心がなく、井本先生のことについてもしゃべらなかった。後任として事務的にクラス担任の業務をこなした。井本先生が学校に来なくなってから、鬱病と診断された生徒も不登校となった。理由はわからない。しかし、クラスの誰もが井本先生の心身の不調を知っている。心配する生徒も多数いたようだ。が、それは「心配」に留まるものであり、それ以上のアクションはなかった。
これはあくまでも教育現場での話である。ここにはどのよう“学び”があり、誰の“成長”そして“幸せ”があったのだろう。
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