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【教師残酷物語】第4話「非正規雇用」(東谷先生31歳/社会科)

「生徒はどう思いますかね? 3年間、年収300万円で働いて、クビになる担任の先生を……。スタバは高級品で、服はユニクロ。そんな稼ぎでも頑張って働いて、そして正社員にしてもらえない先生なんて……。」

 東谷健司先生(31歳/高校社会科)が言うのは、いわゆる“派遣切り”のことだ。教育の現場にもそんな“ブラック”な問題が存在するのか?と疑問を抱く方がいるかもしれない。が、それは「存在する」と言わざるを得ない。勿論、そのブラックには“濃淡”がある。ホワイトに近いグレーなケースがあれば、ブラック近いにグレーのケースもある。けれども、東谷先生の体験は明確にブラックと言えるケースだろう。問題はそれが“合法”な点にある。それがブラックを“ブラック”たらしめている所以である。

 学生時代の東谷先生は国際政治を研究する学生であった。正確に言えば、地政学を専攻し、中国やロシアの経済圏の変遷を研究していた。しかし、将来の不安から、大学院の博士課程後期2年目で研究の道を諦め、教職の道を歩むようになる。教員生活はじめの2年は、大学教授からの紹介で私立高校の非常勤講師を務めた。担当は世界史で、「歴史マニア」の教員だ。

「様々な時代の、様々な国の、様々な出来事を読み解くことは、俯瞰的で多角的な視野を育んでくれます。私が直に体験してきたことなのですが、それを生徒にも実感してもらいたい。そこから自分が生きる社会を分析できるようになってもらいたい。そうしたほうが、世界が面白く見えてくると思うんです。」

 これが彼の歩む教職の道である。しかし、当時勤めていた学校では世界史担当で専任教諭になることができなかった。私立の学校には異動がないため、誰か退職しないと専任という正社員になることはできない。特に社会科や理科は専門分野が分かれているため、なかなか都合よく“空き”が出ない。「日本史のポストなら空いているけど、今、世界史のポストは空いてないんだよね……。」社会科や理科にはよくある話だ。その意味で当時、在籍していた学校には、世界史の“空き”がなかった。
 ただ、彼は有能な教師だ。大学院で地政学を研究していただけでなく、語学にも長けている。話せるのは英語と中国語。フランス語とロシア語は苦手だが理解することはできる。高校教師でこれほどのインテリはどれくらいいるのだろうか。
 だから、彼は他校へ転職ができた。社会科教員の就職倍率は他教科に比べて格段に高い。けれども、彼の場合は、希望通り世界史担当で転職が叶った。ただし、立場は「常勤講師」であったが……。

 常勤講師とは「教諭」ではない。教諭とは「専任教諭」のことだけを指す。ただし、常勤講師は非常勤講師とも異なる。非常勤講師は授業だけを担当する先生のことで、別名は「時間講師」とも言う。そのため、給与も担当している授業数分しか出ない。週に10コマの授業をこなす先生は10コマ分の給与となり、週に20コマの授業をこなす先生は20コマ分の給与となる。わかりやすい区分で言うと、シフトが固定されているアルバイトである。東谷先生は大学院を辞めたあと、この非常勤講師の仕事を2年勤めた。彼の場合は、週18コマの担当で1コマ13500円、月収にすると243000円。これは月額固定で支給され、さらには夏と冬にボーナスも支給された。年収では370万円ほど。しかも、彼は夏休みや冬休みなどに塾の講習も勤めたため、実際は400万円近くの年収になっていた。
 非常勤講師で年収400万円は決して悪い待遇ではない。しかし、大学院を出た28歳の待遇としては良いものではない。そして何よりも彼は担任という仕事を請け負いたかった。大学院を出て2年間。授業のスキルを高め、大学受験指導の知識とノウハウを獲得してきた。教師として次の段階へ行きたかったのだ。しかし、当時の勤め先には世界史教師の空きがなかった。そのため、他校で空きを探した。そして見つけた。ただし「常勤講師」という立場で……。

「常勤講師はグレーに近いブラックですよ。だって、専任教諭と同じ仕事をしてるのに、給与だけは低く設定されてるんですから。担任も部活も分掌も担当して、挙句の果てに若いからって理由で飲み会の“出し物”までやらされてましたからね。」

 東谷先生の転職先の待遇は一律で年収300万円からのスタート。月収で言うと25万円。ボーナスはなし。2年目からは昇給があったが、アップしたのは1万円だけ。月収26万、年収312万。3年目も同じでアップした額は1万円……。

「正直、生活はかなりキツキツでした。1人暮らしで年収300万だと本当に食費だけで消えます。交際費はゼロ。彼女を作れない、ってゆーよりも、昔の友人と飲みにも行けないって感じです。」

 総務省の調べによると、東京で1人暮らしするのに最低限必要なお金は年間で197万円。年収が300万ということは、手取りは240万といったところか……。

「願っていたクラス担任を持てたのは嬉しかったです。けど、とてもじゃないですが、生徒には言えませんでした。だって、どう見ても生徒のほうがお金持ちなんですもん。修学旅行の引率に行って、生徒は嬉々としてお土産を買っても、私は何も買えませんから。むしろ、修学旅行から帰ってきた後に開かれる教員同士の打ち上げ(飲み会)が憂鬱でした。飲み代5000円はきついんですよ……。」

 きついなら、いや、普通に考えて、そんな職場は辞めたほうがいい。もしくは組合や労基署に訴えたらいい……。そう思うかもしれないが、それができない事情がある。ます転職についてだが、すでに述べたように、社会科の就職は厳しい。口が狭く倍率が異様に高いのだ。そして組合や労基署等に訴える手段だが、これらは現実的ではない。なぜなら、常勤講師とは実質的な契約社員だからだ。常勤講師は1年毎に学校と契約を交わし、最長3年契約を更新することができる。3年が経過すると、専任教諭へ登用されるか、契約更新がされないか、このどちらかとなる。生殺与奪の権限は学校側が握っている。不条理や不公平を訴えようものなら、学校側は次年度から契約更新しなければいいだけの話である。だから、常勤講師は耐え抜くほかない。東谷先生はそれを耐えてきた。しかし、専任への登用はなかった……。

「理由はわかりません。ただ、私の後任は若い女性で、この学校の卒業生だそうです。実際、社会科の男女比率は男性が圧倒的に多いので、そのバランスをとる意味で、女性を採用するのは理解できます。しかし……。」

 彼は言語化しなかった。が、その曇った表情からは明確に「縁故」の二文字がにじみ出ていた。勿論、「卒業生だから」「女性だから」採用されたわけではないだろう。そう断言できる根拠はどこにもない。そこにはただ「契約を満了した教師」と「新たに契約を結ぶ教師」がいるだけだ。

「生活面は耐え忍ぶことができました。けど……、1年目は高校1年の担任、2年目も高校1年の担任、そして3年目は高校2年の担任だったんです。2年間同じ学年の担任をして、それなりに生徒とも教員とも信頼関係を築いてきて、高校3年の最後の年に担任ができないってゆーのは……。彼らの卒業を自分の手で導けないというのは……」

 東谷先生は「人が良い」人なのだろう。話を聞くと、彼は休日も夏休みも部活の指導に熱を入れてきた。大学院を出た頭でっかちのインテリタイプではない。男子テニス部の顧問として暑い時も寒い時も、練習・試合に付き合ってきた。クラスの不登校生徒のために何度も家庭を訪問し、保護者の相談にも乗ってきた。
 きっと教育者としての熱意がクラスの生徒にも伝わっていたのだろう。彼の担任していたクラスの集合写真はどれも楽しそうだ。光が溢れている。担任に熱意がなければ、クラスはこうも明るくならない。

「今は塾の講師とアルバイトを掛け持ちして生計を立てています。社会科は競争が激しいんですよ。それに私は今年で32歳ですし……。せめて契約更新しない旨はもっと早くに言ってほしかった。11月に言われても、その時期はもう公立の採用試験は終わってましたから……。」

 おそらく3年間履き続けていたのだろう。黒の革靴のソールは擦り減り、革は見るからにボロボロだ。彼はその靴で「常勤講師」という足場の不安定な道を歩み続けてきたのだ。

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