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#4 飢えたる部屋

大雨が朝から降りつづいている。

閉じこもれ、と天も告げているようでもある。やはり、晴天と雨天では、部屋の明るさも変わるので、気分にも多少の影響がでるもので、今朝はなかなか起き出すのが遅くなった。とはいえ、雨音を聴いているのは、いい気持ちではある。

起き出して、空腹であることに気づく。が、朝食を食べる習慣のないぼくは、少し我慢して、箱買いしているクリスタルガイザーをとりだして、水を一気に流し込む。また目が覚めてくる。

在宅勤務をはじめて、規則正しい生活をしようと思って、朝昼晩の食事を作ろうとしたこともあった。しかし、毎回毎回食器を出して、なにをしようとか、考えて、さらにはつい食べすぎたりして眠くなってしまったり、そうして、うっかり3時間も昼寝をして気づいたら外が暗くなっていたなんてこともあった。

職場で仕事をしていたときは、朝にパンのようなものを買って、職場についたところでパクっと2、3分で食べて、なんてことをしていたものだが、この在宅勤務になって、食について考え直したときに、ぼくはあるとき読んだ記事のことを思い出した。

それは高橋源一郎さんの「ダイエット」についての記事だった。

「読むダイエット」とは実に高橋さんらしいやり方でダイエットをしている。なにをするかといえば、古今東西の「ダイエット本」を読むのだ。まずは、江戸時代の水野南北という人の「食」について、若井朝彦『江戸時代の小食主義』(花伝社)という本を読んで勉強している。そこで、高橋さんは次のように説明する。

空腹時こそ「善」の気持ちなのだそうだ。しかし、これちょっとつらいかも、と思ってはいけません。貝原益軒の『養生訓』もそうだが、この『修身録』も、単なるダイエット本、健康本ではありません。人間、如何に生きるべきかを書いた本なのである。真に健康になるためには、からだのことばかり考えていてはならないのだ。
 ちなみに、江戸時代も後期になると、一日三食になっていた。ということは、江戸時代前期には、一日二食が広く行なわれていたようだ。つまり、南北さんの「三膳なら二膳」というアドバイスの中には「最近、三食食べるようになったけれど、以前の二食の方がましなんじゃないの」という、歴史の見直しという考え方も入っているのである。これは現代科学の知見でもあるのだが、人間は誕生以来数百万年もたっているが、その大半を「飢餓」状態で過ごしてきた。つまり、「お腹が空いている」というのは、人間、いや、すべての哺乳類にとって「ふつう」の状態だということだ。三食とも食べてお腹一杯なのは、生きもの的には「ヤバい」のである。まあ、そうはいわれても、みんな、この異常状態に慣れちまってるわけなんだが。

ここは、眼から鱗だった。健康的な食事を!と考えたときに、ぼくたちはまず一日三食、栄養バランスよく食べる、ということだった。そうした習慣から、いまの時代は長寿にもなってきているのかもしれないのだが。とはいえ、たしかに、人類史を辿って、「飢餓」状態が「ふつう」である、ましてや哺乳類が常に「満腹」であるということは、「異常」なことであるのだ。

ぼくは昔から朝食を食べるのが苦手だった。母親が用意してくれる朝食も、いつまで経っても、喉を通らないような気がしていたし、旅館やホテルででる朝食は、たいへんおいしいので、食べたりはするが、その量のせいで、その日は少し具合が悪く、旅行も楽しめなくなったりすることがあった。

狩猟で生きていた人類も、おそらく寝起きに食事をするなんていうこともなかったかもしれない。満腹の状態で、きっと狩りなどはできないだろう。空腹であるがゆえに、ちょっと危険をおかしてでも狩りをするのだ。よく「ハングリー精神」というが、きっと人間も少し「飢え」があるくらいでないと、リスクをとったチャレンジなどしないのだろう。

食事と眠気の関係性は、血糖値の上下によるものだから、ある程度の食事をすれば、必ず眠気を感じるようにもなってくる。そういうことを考えたとき、とくに、ものを考えたりするようなことをしようとする日には、朝食を抜くということも一つの手であるだろう。

とはいえ、昼食も同様。まだまだ活動しなければならない時間帯だ。よくお店に行くとランチメニューなどがあるが、食べて眠くならなかったことがない。パスタもカレーも揚げものの定食も、食べたあとにどうした活動できるのか。そんなことを考えて、前から昼食には、サラダやたんぱく質を中心に摂って、血糖値が急上昇しないように心がけている。

それを応用して、現在は昼食にはホウレンソウをよく食べる。食べ方には諸説あるが、さっとオリーブオイルとニンニクでソテーにするか、水にさらしてシュウ酸をとりのぞいてからサラダにして食べる。あとは、ヨーグルトに冷凍ブルーベリーをいれて食べる。などなど。

これくらい食べればそこそこお腹も落ちつくし、そこそこの栄養も摂れる。現に、朝昼の活動レベルはかなり上がっている。そして、夕食は好きなものを食べる。「空腹が最高のスパイス」という言葉もあるように、よだれをたらしながら料理をして、できたあとの最初の一口がなんとも言えない。

瞑想にも、食事の際に、眼を閉じて、一口一口を味わい尽くして食べるという方法がある。つまりは、「味わう」という「いま」に全集中するのである。これも一つの幸福感の向上にもつながっていく。

在宅勤務によって、生活そのものが大きく変わっていく。

さて、食事の「味わう」ということについて話してきたが、「詩」も同時に「味わう」ようにしている。初回の吉増剛造さんの『詩をポケットに』をヒントにしながら、あらためて萩原朔太郎の詩を読んでみたり、毎日『戦後名詩選』で三編ずつくらい読んでいる。

ちょうど先日、吉増剛造さんがDOMMUNEに出演しているのを観た。何度か講演にも足を運んだことがあるし、直接お会いして食事をしたこともあるので、いつもの吉増さんだなあと思いながら見ていたが、通常は、最初に現れたときの姿には驚くものだと思う。

それはともかく、吉増さんの詩の捉え方は非常に独特だ。彼の感じていること、語っていることは、いわゆる一般人からすると、何言ってるんですか?ということでもある。追いかけているぼくたちですら、わからないことの方が多い。そして、吉増さんは、自分が行った土地、聴いたこと、あのときのこと、それらから、「言葉」を味わおうというのか、触れようというのか、捕まえようと、というのか、そういう、「言葉」自体の「声」を聴こうとする。

それは、非常に「個人的」なことだ。言ってしまえば「主観」以外のなにものでもない。が、そこに「価値」を見出さないで、文学も藝術もあったものではない。吉増さんは、目の前のものへの向き合い方を教えてくれる。そうして、「言葉」に対峙したときの言葉一音一音の、響きだとか、イメージだとか、そういうものがたちあがってくる。

詩が、言葉が、もっともっと味わい深いものとして見えてくる。

次は、萩原朔太郎のことを書こうかな。

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