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#5 生涯の映画幕を映す部屋

詩を、少しずつ読んでいる。

在宅勤務も長くなってきて、だんだんとルーティンが作れるようになってくる。だいたい、朝起きてからは仕事をして、あらかた片付けたら、買い物に出かけるか、昼食を軽めにとる。それからは、仕事の捗り具合にもよるが、1時間ばかり時間をとって、こうして文章を書く。もう一度、仕事に戻ったあと、夕食前に、吉増剛造さんの『詩をポケットに』を読む。そして、『戦後名詩選』を読む。落ち着いたところで夕食の準備をして、アニメを見ながら食べる。そのあとは、詩を書いたり、別の本を読んだり、勉強をしたり、自由時間にしている。

ルーティンに詩を読む時間を取り入れたのは、もっぱら勉強のため、というのもあるが、感覚を研ぎ澄ますため、というのもある。見る眼、聴く耳、嗅ぐ鼻、触れる手、味わう舌、という、「詩」の感覚的な部分をとらえようとする訓練のようなものだ。

そして、この在宅勤務という閉じられた空間のなかで、人の身体的なふるまいが変容していくなかで、そうした感覚がどう変わっていくのか、そういう「無意識的」なところを、こうして記録することで、いつか、こうした「変容」があったと言えるようにしてみたいというのもあって、最近は毎日のようにnoteに、日記とも、エッセイともつかないものを書いている。

さて、「#1言葉の枯れていく部屋」から常々触れている吉増剛造さんの『詩をポケットに』だが、この本は、萩原朔太郎からはじまって、西脇順三郎や啄木、中也、宮澤賢治といった名だたる近代詩人のみならず、イェイツや田村隆一、吉岡実、折口信夫や安東次男など、多くの詩人の足跡を辿るものになっている。

これを読んでいくと、現代日本最高の詩人吉増剛造さんがどのような「詩」の感じ取り方をしているのかが少し見えてくる。

今日は、はじめの萩原朔太郎について話そう。

ここで学ぶことは「ヴィジョン」ということだ。視覚的な側面。

詩を読んでいるとたびたび情景のようなものが描かれることがある。明確にではなくとも、曖昧だったりいびつなかたちで描かれることが常だが、通常、その風景について、リアリティのあるものであれば、ああなるほどねと受け入れることもあるが、超常的な情景が描かれる場合、は?意味わかんねえ!で済ましてしまう人も多いと思う。

しかし、詩人というか、語り手というべきか、作品内での抒情主体は、紛れもなくその風景を見ているわけである。そうした風景のことを、ひとまず「ヴィジョン」と言ってもいいのだろう。

そこで、吉増さんは萩原朔太郎が前橋出身であることを述べる際にこんなことを言う。

萩原朔太郎の心の幻影のスクリーンを通してみているような微妙ないい方ですと、“利根川近き田舎の小都市”(『青猫』序文の末尾)となります。

ここで、なるほど、まさに、さきほど述べたような「ヴィジョン」という詩の風景は、「心の幻影のスクリーン」を通して見た世界なのか、ということがわかってくる。それをさらに「詩の眼の光」と言ったり、「幻視の膜」と言ったりもしている。

詩を読むうえで、この「心の幻影のスクリーン」というのは踏まえておく必要があるように思う。詩人にしか見えない「ヴィジョン」というものを辿っていくことで、どこか別の世界につながっていくような感覚。そうしたものを、味わっていくというのが、まず大事なのだろう。現に、萩原朔太郎も詩のなかで次のように語っている。

 蒼ざめた馬

冬の曇天の 凍りついた天気の下で
そんなに憂鬱な自然の中で
だまつて道ばたの草を食つてる
みじめな しょんぼりした 宿命の 因果の 蒼ざめた馬の影です
わたしは影の方へうごいて行き
馬の影はわたしを眺めてゐるやうす。

ああはやく動いてそこを去れ
わたしの生涯(らいふ)の映画幕(すくりん)から
すぐに すぐに外(ず)りさつてこんな幻像を消してしまへ
私の「意志」を信じたいのだ。馬よ!
因果の 宿命の 定法の みじめなる
絶望の凍りついた風景の乾板から
蒼ざめた影を逃走しろ。

おそらく、冬の曇天の下で「馬」に出会ったことは事実なのかもしれない。実際に、朔太郎はカメラでその「馬」の写真を撮っている。しかし、その「馬」が「みじめな しよんぼりした」ように見える風景は、いわゆる「ヴィジョン」というものなのだろう。そして、それを、この詩のなかの言葉で言えば「わたしの生涯(らいふ)の映画幕(すくりん)」ということなのだろう。

「映画」というのは、明治後期から大正にかけて流行り出したものだ。暗闇のなかで、白黒の映像が動いているというのは、それまでのなかで体験することのない感覚を呼びさましたものだと思う。まさに、「映画のスクリーン」というもの自体が、詩的な「ヴィジョン」そのものだったと言える。

そういう「眼」を持って、今一度『月に吠える』などを読んでいくと、また違った感じで詩が、ぼくたちのまえにあらわれてくる。

 竹

光る地面に竹が生え、
青竹が生え、
地下には竹の根が生え、
根がしだいにほそらみ、
根の先より繊毛が生え、
かすかにけぶる繊毛が生え、
かすかにふるえ。

かたき地面に竹が生え、
地上にするどく竹が生え、
まつしぐらに竹が生え、
凍れる節々りんりんと、
青空のもとに竹が生え、
竹、竹、竹が生え。

ほぼすべての行に「竹」があらわれる。そしてそこに「根」だったり「繊毛」だったりと、さまざまなものが「生え」てくる。実際には、すでに立っている「竹」を描写していくものだと思われるが、読んでいると「竹」がいまどんどんと「生え」ていくような風景が浮かぶ。「竹」はそんな猛スピードで「生え」ることはないから、早送りで見ているような風景だ。この「竹」に何がこめられているのかは読者それぞれが受け取るべき問題だが、まさにこうした詩的風景が「ヴィジョン」であると言えるだろう。

とくに朔太郎はこうした「映像的」な表現が多い。おそらく、「映画」の体験ということが、朔太郎の感覚を変えたのだと思う。だから、ぼくたちがいま直面している「閉じこもる」という体験も、なんらかのかたちでぼくたちの表現に変容を加えることになると思う。(もちろん朔太郎と言えば「音楽」であるので「音楽的側面」も無視はできない。それについては、いつか語ったことがあるので、またの機会にしよう。)

こうした詩の視覚的側面、眼には見えない詩的風景。吉増剛造さんからまずポケットにしまっておくべきものとして、そういう「詩の眼」をプレゼントしてくれる。これをもって、別の「詩」を読んでいくことで、自分なりに「詩」の世界を散歩してみる。

もっともっと、深く深く、歩いていってみよう。

余談。

萩原朔太郎の「蒼ざめた馬」しかり、「蒼ざめた馬」というのは「ヨハネ黙示録」に登場する「死」を象徴する馬のことだ。いわゆる「ヨハネ黙示録の四騎士」のうちのひとつ。他に白い馬、赤い馬、黒い馬がいる。「蒼ざめた馬」は第四の騎士。これは、ぼくのペンネームにも由来するものでもあるが、この「蒼馬」を冠するタイトルは結構多い。日本では林芙美子の詩集『蒼馬を見たり』があり、ロシアではロープシン『蒼ざめた馬』がある。アガサ・クリスティーにも『蒼ざめた馬』がある。そういう意味では、このペンネームもなかなか奥が深いものに感じられてくる。

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