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#1 言葉の枯れていく部屋

新型コロナウィルスによって世間がどよめきだしてから2か月あまり。流れ流れて「非常事態宣言」が発令されるまでになった。ぼくたちはいま、「非常時」に生きている。

ぼくは、在宅勤務を命じられて、ひとり、部屋に閉じこもって生活をはじめた。

SNSをつうじてコロナコロナと日夜、不確かな情報が目に入ると、アレルギーのように頭が反応して、精神的な疲労が募っていく。はじめは、時間が余計にできたからアニメを一気に見たり、好きなだけ寝てみたりしていたが、だんだんとこのままではいけないのではないかと思いはじめて、運動をやりだしたり、勉強でもしようという気になって本を読んだりする。それはそれで、この生活に順応しようとしているのだからいい。

だが、この生活に、決定的に欠けているものは、「話すこと」だ。

朝起きてから、眠るまでに、気づけば誰とも話をしていない。スーパーに買い物に行っても、せいぜい「ありがとうございます」程度しか言わない。それでも、話したつもりになっているのは、SNSでコメントをしたりするからなのかもしれないけれども、こうした生活の変容が、ぼくたちに何をもたらすのかというのは大きな問題のような気がする。

緊急事態宣言が出た直後、出勤して職場の人たちと話していると、やがて元どおりの日常がやってくることが前提で話している人が多かった。しかし、このコロナウィルスが与えた世界的な影響は、ぼくたちをまったくちがう世界への扉を急にひらいてしまった。スーパーに出入りするたびに、備え付けのアルコール消毒をしたり、人との距離をとったり、公共物に触らなくなったり、換気をよくしたり、という、人々の「ふるまい」自体が変わった。

たぶん、ワクチンが開発されて、季節性インフルエンザのような脅威レベルになったとしても、こうした「ふるまい」は変わらないんじゃないか。建物は「三密」を避けるような設計になっていくだろうし、そうでない建物の不動産価値も下がっていくだろう。WEEKLY OCHIAIで安宅和人さんが、人類が文明として築いてきた都市化は「過密する」ことだったが、コロナの到来によってまったく逆の方向に向かうことになったという旨の話をして「開疎化」というキーワードをあげていたように、そういう世界観に更新されていくのだと思う。

そして、自国が終息しても、グローバル社会が継続する限りは、どこかの国で脅威が続く限り、第二波、第三波がある。経済活動が再開しはじめたとしても、本質的な問題はかなり長期的なものになっていくだろう。実際、ハーバード大は2022年まで自粛が必要なのではという予測もある。

だから、元どおりの日常はやってこない。一度、「在宅勤務」でも問題がないことは、無理矢理出社する必要がないことの証明になってしまうし、今後は「人に会いたい」というとても純粋な欲望だけが、出社する動機となるかもしれない。

それだけ、コロナがもたらした「非常時」はぼくたちの生活を大きく変えた。そして、元の日常はもどらない。それは、大きくぼくたちの「ふるまい」を変えてしまう。

その一つが、「無言」でいること。

当然、家族と一緒に住んでいる人たちに、「会話」がないわけではないし、zoomなどでのオンラインでの「会話」もあるだろうけれども、それはこれまでの日常とはまた別の「会話」のあり方だ。時差があったり、空気の読み方も変わっていく。「無言」のバージョン。そこから、どんな「言葉」が生まれてくるのだろうか。

ぼくは「詩」のことを考える。最近はなかなか書けなくなってしまったのだけれど、書こうとすると、「言葉」は同じでも、どうしてもそこにこの「非常時」が入りこんでこようとするのを感じる。そして、それを書かなければ嘘になってしまうような、そういうところにきている。

まわりの「詩」にたずさわる人たちがどう感じているのかはわからない。でも、世界観の更新にともなって、これまでの日常観で書くわけにもいかないようにも思う。当然、詩でコロナを書くとかではない。変容したふるまいで、書くということ。何をどうすればいいのかはわからないし、むしろ無意識でそうなっているのかもしれない。

ただ、ぼくたちは独り言は言う。しかし、それは誰も聞いていない。いや、しかし、そもそも待てよ、「詩」は、コミュニケーションの言葉ではない、とするならば、ぼくたちは、「詩」の「言葉」を獲得しつつあるのではないか? 「言葉」が枯れていく。そのなかで、なにが起こっていくのか。

 この「枯らす」という言葉には出典があって、吉本さんの『初期ノート』の中の「全てを枯らさずに歩む者こそ天才と言えるのである。」天才なんて嫌だから取っちゃって、「全てを枯らさずに」というのを逆に否定的に捉えて、枯らしていくといいました。枯らすことが大事だというのは、さきほど、萎えさせる、あるいは「さび」という言い方をして、芭蕉さんの名前を出しましたが、もう少しいいますと、「書くこと」の「細み」のようなものと関係があるらしくて、それと「色」や「筆跡」ともかかわっていて、しかし「書道」や「絵画」には近づけたくはない……あくまで「書くこと」に関連づけていますと、筆の折れる音が聞こえる、……という少し判りづらい感じで説明をしていますが、「書記」が、ここ十年位「割注」あるいは「裸のメモ」という小さな文字の方へ、もう押しとどめようもなく向かっていっていて、……このことと「怪物君」六百四十六葉、四年半も密接につながっているのですが「読み手のいる場所」を枯らそうとしているともいえます。それと、言葉を薄くする、中間状態にする、言葉自らに語るように仕向けるという、まあ「言語の極限」を目指すということに収斂するのでしょうが、それを「枯らす」という一語で代表させようとしたのですね。どこかに日本的な美感というのかな、木が折れるような感覚もあるようだし、実際にノイローゼぎりぎりまで行ったときに、意図してそういうところへ行っちゃうんだけども、外国語の中でむしろ日本語だけが骨みたいになって立ってくるようなところへ心を運んでいくわけね。そうしないと詩なんて出てこないからね。そういうことを繰り返してるの。
(吉増剛造『我が詩的自伝 素手で焔をつかみとれ!』講談社現代新書 2016年4月)

ひとり、部屋のなかで閉じこもって、言葉を枯らしていく。

その「ふるまい」の日々を、これから、日記というのか、ノートというのか、記録のようなことをしていくことで、言葉の変容を辿ってみようと思う。

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