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何者かになった瞬間に息苦しくなる


だいたいの欲しくてたまらない物や行きたくて仕方がないところ、到達したすぎる場所って、手に入れてみればそれほど大したものじゃなくて、こんなものだったのかと拍子抜けしてしまうものがほとんどだと思う。
どんなに憧れていても、経験してみればほんとうに取るに足らないものだったり、次の目標を失ってしまって何をしたらいいかわからなくなったり。
オリンピックに出ても、東大出ても、大金を手にしても、ダメになる人はダメになる。

髪の毛を丁寧に巻いてフォックスファーのコートに身を包み、8cmのピンヒールを履くのも素敵だけど、そんなの年一回くらいがちょうどいい。
ご飯も美味しいに越したことはないけれど、リラックスしながら食べたいから開放的なレストランだとか夜景が綺麗なホテルだとかもたまーーーにでいい。偉そうなのは重々承知だが、そういうのにはもう飽きつつある。生まれたときはバブル景気だったし、それがはじけてからも父が外資系企業に勤めていたからなのか、わりと贅沢をして育った。というか、贅沢の仕方を見せつけられて育った、という感じ。
もちろんそれだけ余裕のある暮らしは素敵だけど、できるけどやらない、っていう選択もありじゃん、って思う。
食事に関しては、普段は自分で作って、疲れたときは近所のお店でサクッと食べて帰るか、好きな人の手料理を食べたりもしてみたい。

質素慎ましやかに、必要最低限のものだけで生きていければいいのかもしれない。健康で文化的な最低限度の生活ができればそれでいい気がする。
それでもウォシュレットは欲しいしお風呂の追い炊き機能も欲しい。コンロは最低ふた口ないと嫌だし、たまにはご機嫌になれるワンピースも着たい。読みたい本は値段を気にせず買い揃えたいし、ときには運動をする時間も必要だ。そういうことをすべて包括したのが、私にとっての「健康で文化的な最低限度の生活」だと思う。
読書と食事と運動が丁寧にできることと、自分をもてなす術をしっていること。
それがすべてそろって初めて「健康で文化的な最低限度の生活」だ。どれが欠けても私は健康でいられない。

私が私として生きていくのは、それだけで贅沢なことなのでしょうか。身の丈にあった暮らしをするとなると心身ともに死ぬと思うし、死なないように生きていると贅沢だと批判される。なんだか悲しいです。
何者にもなりたくない世の中だなあ。

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