個人的な経験/大江健三郎(1)


文庫↑Kindle↓

まだ読みかけなんですけど、とりあえず書いてみようと思います。

今は主人公のバードが火見子の部屋でウイスキーを流し込んでいるあたりです。
そこで火見子は「多元的な世界」について語る。
ーー人は生きるか死ぬかの経験をしたとき、今生きていると認識している自分とは別に、死んだ方の自分もまたいて、その死んだ自分をとりまく世界も存在して、そんな、死んだ世界も並行して進んでいっていてーー
というようなお話。

わかる。なんて言っていいのかはわからないけれど、わかると言いたいです。
私も子どもの頃から、この今私が生きていると感じている世界以外にも私が存在するんじゃないかとか、この世はもっと大きな「この世」の片隅にこじんまりと存在しているだけなのかもしれないとか、そんなことを考えて過ごしていたから。
例えば、今、私が生きていると認識している世の中、というか世界、もとい宇宙は、もっともっと大きな世界の、どこかの家庭のキッチンの三角コーナーで生ゴミと一緒に発生しているに過ぎない、とか。
で、生ゴミを捨てられるタイミングで世の中も終わる、とか。
この地球でも、一般的には大きな生き物ほど流れる時間が遅く感じ、寿命も長いと聞きますし。
にしても、パラレルワールドとでも言えるのか、この、多元的な世界という発想は面白いというか、なんだか危険だよなあと思います。
うまく言えないけれど、死が身近に感じられてしまうというか、抗う気持ちが薄れてしまいそうというか。
でもなんだかとにかく愛されたいなって思いました。どうして?

あとこの本を読み始めて最初に思ったのは、舞台が日本じゃないみたいってこと。
それはギャング映画よろしく薄暗い店で私とは縁遠い(私はイイコなので!)ゲームをするこわい人たちが出てくるせいかもしれないし、予備校時代の教え子が寄付金で裏口入学したっていう設定のせいかもしれないし、火見子の部屋もとい生活が私の知っている日本(というか東京23区内)ではありえないような様相(高円寺あたりならありえそうだけど)を呈しているから、かもしれない。
あとまあ、出だしがアフリカがどうのとかだったから、かもしれないけれど。

ていうかこんなに昔の本にリアリティとか共通項のようなものを見出そうとする方がおかしいですか?
でも偉大なる星新一さんは死ぬまで「ダイヤルを回す」とかの表現をいつの時代にも則するように訂正していたっていうし、やっぱり星新一さんは偉大です。
まあ「ダイヤルを回す」とかの表現を残すのも素敵だと思いますし、プロットと言葉の選び方と、なにより自分らしさが文章を書く上では大事なのかなっておもいました。
ダイヤル回して手を止められたい〜〜〜!うそ。
でも吐息をバラに変えるとかはされたいです。え、えろい

昔の本もたくさん読みたいですね。
がんばります。



昨日は小1女子のうんていを手伝いました。2個とばしでできるようになりたいらしく、補助してあげたら何度かできて、嬉しそうだったので私も嬉しくなりました。
ただ、2個とばしでうんていを掴むとまだ腕の長さが足りないので頭がゴッツンコしそうで怖かったよ。

お読みくださりありがとうございます。とても嬉しいです。 いただいたサポートがじゅうぶん貯まったら日本に帰りたいです。