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安心して好きになれる

例えば
あなたがいま高校生だとして、片思いしてる先輩がいたとして、それをおおっぴらに言えるでしょうか。
「わたし(ぼく)、○○先輩好きなんだよね。だってかっこいいし優しいし」
なんて。
めちゃくちゃ仲のいい友達に冗談めかして言うのが精一杯なんじゃないかなって思うんですよ。まあ私はノーマルな女子高生をやったことがないのでイマイチ高校生の恋愛を掴みきれてはいないんですけど。

だけど同じ高校生が
「わたし(ぼく)、○○ってバンドのベーシスト好きなんだよね。かっこいいし優しいし」
だったらフツーにべらべら話してても聞いてる側もフツーって感じですよね、きっと。

なんで同じ「好き」って感情なのに、それを発露するのが恥ずかしいと感じられてしまうものとそうでないものがあるのかって、私はその「好きの対象への距離」に関係あるんじゃないかな〜なんて思うんですよ。
だって、そのなんとか先輩は同じ高校に通ってるし、同じ校舎で授業受けてるし、普通に生きてる日々を普通に目にできちゃうんですもん。年代もほとんど同じようなもんだし、そこそこがんばって運が味方してくれれば付き合えちゃうかもしれなくて。
実現する未来が見えちゃうんですよ。
かたやアーティストとかアイドルとか、遠い(ように感じられる)人たちは、その高校生からは日常が垣間見ることができなさそうだし、どこに住んでるかもわからないし、とにかく付き合うってことになる可能性がとっても低い感じするじゃないですか。

そう、だから、ほとんど有り得なさそうだから、だからこそ平気で「あーキムタクと結婚したい」とか言えるんですよきっと(例えが古いですか?)。

いやまあでも、自己評価がめちゃくちゃ低い高校生なら「わ、わたしが○○先輩のこと好きなんて……!おこがましすぎて誰にも言えないっ!!」ってなりそうだしそんな子は好きな芸能人に対しても「わわわわわわたしがあんな偉大な方のことを考えてるなんてそれだけで失礼に値するわ!!」とか言ってそうで、それはそれで可愛いですね。

そこから派生して、好きな作家についてもちょっと似たような考えを持ちました。
まあ聞いてください。
私は先月くらいまで10年以上、さんざん重松清さんという作家を推してきました。普通にめっちゃ好きだったんです。
そして、最近、あまり好きではないのかも?と思い始めました。
文章は綺麗だと思うし、言葉の使い方もとても好きなのには代わりないんですけどね、なんだか、「加害者にも理由がある」っていう感じのアレが全面に出すぎてる気がするなーなんて思うようになったんですよ。
そりゃもちろんだいたいの加害者は理由があって何かしらやらかしちゃうんだろうけど。それをちょっと、自分の中で否定したい時期なのかもなー私は、なんて。

今までそれらの文が好きで必要としていたのは、私自身が「相手がマトモじゃないから私が不当に扱われるんだ、私は普通だしマトモだけど、相手がちょっと壊れてるから、だから仕方ないんだ」みたいに自分を納得させないと生きてこられなかったからなのかな、なんて。

そんで、でもなんか、なんていうか。
重松さんはまだ生きてるんですよ。
だからその文章も否定的に見たくなっちゃうのかもなーなんて。神格化できない、みたいな?
他に好きな作家さんのなかでもう亡くなってる方々を想うと、安心できるんですよね。この人たちはもう意見も変えないし、私がどう思おうと攻撃もしてこない、って。
結局拒絶されるのがこわくて自分から拒絶してるのかなー、でもなんか、死んだ人を神格化するって宗教じみててキモい!とか思っちゃう。

対象との距離って考えると「夢」もそんな感じするなあ、とか。
医者になりたーいとかバンドで成功したーいとか、遠くにあれば気軽に口に出せる感じしません?
私は作家になって玉山鉄二と結婚しますけどね?





素直なきみも素直になれないきみも、みんな好きだよ!


かっこつけてしまいましたが今日は塩胡椒で焼いたお肉と白米だけの手抜きごはんです。
それが25歳独身女性のリアルなんだ!!
まあ私は男なんですけどね。うそかもよ?

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