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 あたしの知人は排気ガスで曇った平坦な空を泳ぐ。もちろん夢の話だ。そして、その瞬間が最も幸福で満たされるときだと言っていた。
 ちょうど同じ指紋が存在しないように、あたし達の中で育った世界は異なる。

 交差点の夢をみた。ねずみ色のビルに囲まれた午前四時の冷たい交差点。赤の点滅信号と黄の点滅信号が乾いた呼吸をしている。車は走っていない。人の姿も見えない。そこにいるのは『あたし』だけだ。二浪して大学へ入り、人並みに就職して、年末に結婚を控えた『あたし』だ。たまに遠くの高速道路を長距離トラックが走り抜けるエンジン音だけが耳の奥に響く。それは外国から届く波の音に似ている。闇の中、轟く不吉な波だ。
 あたしは交差点の中央に立っていた。細かい花柄のワンピースを着ている。初めて見るようなワンピースだ。どうして知らない服を着て、知らない交差点にいるのかという初歩的な疑問は浮かんではこない。夢の中のあたしは、なにも考えずにそこに立っていた。まるで、そうしなけらばならないように。
 黒いアスファルトの上に消えかけの白線が染み付いている。空はひどく濁っていて星のかたちを消し去っている。かろうじて牙のように尖った三日月だけが、夢遊病者の好みそうな淫らな光を発していた。
 あたしの口からは、肺を動かすたびに白い息が吐き出された。
「寒い?」
 うつろな目をした名もない少女が、あたしに語りかけた。いつから隣にいたのだろう。あたしを見つめる瞳は半透明で、プラスチックのように生命を感じさせなかった。あたしは名もない少女に向かって首を横に振った。寒くはなかった。ただ、湿った空気が鼻腔をくすぐっているだけだ。
「これからどこへ行くの?」
 名もない少女は人形のように無機質な白い肌をしている。
「分からないな。一体どこへ行けばいいと思う?」
 逆にあたしが訊ねてみた。
「それはあなたの問題で、あたしの問題じゃないから」
「でも、本当に分からないの」
「もし」名もない少女の口から白い息が出た。「もし、あたしがそれを決めてしまったら、あなたは消えてしまうのよ」
 あたしは再び空を見上げた。雨の匂いを含んだ雲が生き物みたいに旋回している。
「決めて」とあたしは言った。「消えてしまってもいいわ。あなたが決めて」
 消えてしまってもいい。夢の中のあたしはそう断言した。そこには小指ほどの迷いもなかった。名もない少女は静かに微笑んで、小さなため息をついた。町の欲望を凝縮したようなため息だ。
 知らないうちに、三日月はどろどろとした雲に吞み込まれていた。

 額に無数に浮き上がった汗の重みで目が覚めた。薄暗い視界には白塗りの天井がだらしなく広がっている。静かだ。あたしが存在していることさえ曖昧にさせるほど部屋は沈黙を保っていた。
 どれくらい眠っていたのだろう。そして、どうして目覚めてしまったのだろう。
 重い首を無理に曲げてベッドの下に転がった瓶に目をやった。親指ほどの大きさの瓶の中身は空だ。
 三十粒。市販されないその蛆虫のような錠剤は、すべてあたしの胃の中に収まっている。錠剤の表面には一粒ずつに英文字が刻印されていた。半分をかみ砕き、残りを水で流し込んだ。吐き気はしなかった。少しだけ目の奥が痺れているだけだ。目を閉じる前に泣いたせいだろう。
 あたしはまだ生きている。
「まいったな」
 八畳の部屋に飛び散ったその言葉は、すぐに消え去った。壁に貼りついた無数の白黒写真が、あたしのことを悲し気に見下ろしていた。ほとんどが猫の写真だが、中には婚約者の笑顔も混ざっていた。不自然な笑顔だ。あたしが向けたカメラのレンズにただ反応しただけのそれは、笑みと言うよりは歪みに近い。
 知り合ってから三年になる。べつに結婚を急ぐ必要もなかった。ただ彼は結婚をゴールに定めているような人だった。一体、なんのゴールだろう。結局、その問いかけに彼は答えることはなかった。その代わりに、こう言った。
 夢のないやつだな、と。
 あたしは目をゆっくり閉じると、再び永遠の眠りを待つことにした。

 あたしは闇の中を走っている。黒という色さえも存在しないような闇があることを初めて知った。あたりには乾いた呼吸音だけが静かに響いている。リズムをとりながら口で息をした。
 二回すって、二回はく。小学校のマラソン大会で体育の先生が言っていたことを、二十七歳のあたしは忠実に守っている。悪くないペースだ。
 すう、すう、はく、はく
 どれくらい、こうして走っていただろう。疲れはない。ただ怖いだけだ。足元に広がるものが地面かどうかさえ確証がもてなかった。ここは一体どこなんだろう。あたしはどうして走っているんだろう。
 それでも、あたしは走り続ける。

「寒い」
 無意識にそうつぶやいた。ひどく喉が乾燥しているのか、別人みたいな声をしていた。うまく眠ることができないでいる自分自身に苛立っていた。オブラートのような膜が、喉の奥にぺたりとついているような気がする。からだの芯が急激に冷えていくのが分かった。汗はシルクのパジャマをぐっしょりと濡らすほど出るのに、凍えてしまいそうだった。小さいころ、発熱する前夜もこんな感じに芯から冷えたのを思い出して、少しだけ懐かしくなった。
 あたしが死ぬことを決めたのは、昼間だ。自殺者のほとんどは夜に決断すると以前本に書いてあったが、あたしには当てはまらなかったようだ。
 普段となにも変わりのない平凡すぎるほど平凡な昼休みだった。
 コンビニエンスストアでハンバーグ弁当を買うために会社を抜け出したあたしは、いつものように明治通りで信号待ちをしていた。大粒の雨が明け方までぼたぼたと降り続いていたせいか、道路はカブトムシの背中みたいに湿っていた。それがとても淫らに思えたから、顔を上げずに視線だけを空へ移した。四方八方にのびた電線の奥に梅雨の空が見えた。小さくて平べったい雲の群れが、つまらなそうにだらだらと東へ移動している。パンの上で溶けているバターを意味もなく連想した。今にも腐った臭いのする雨を降らしてきそうな不愉快な雲だった。
「お知らせします。光化学スモッグ注意報が発令されました」
 どこかの役所に取り付けられた大型スピーカーからたれ流される女の声が、街中に響き渡ると同時にあたしの鼓膜も震わせた。今年になって五回目。
「繰り返します」女は人々の意志とは無関係に続けた。「光化学スモッグ注意報が発令されました」
 法定速度を無視した車が、あたしの目の前を何台も走り抜けた。日本車もあれば外国車もあった。
 あたしは、うんざりした気分で横断歩道の信号を凝視した。信号は苛立たしいほど誇らしげに赤を点灯させている。あたしはそれを見て血の色を思い出した。
 遠い昔に見た血の色だ。
 都立高校に通っていたときに、右の肺に小指ほどの大きさの穴が開いて入院したことがある。詳しいことは分からないが、咳をしただけで破れたらしい。穴が小さいためか、生活している上で痛みはなかった。ただ、横を向いて寝ると胸が引き裂かれるような激痛が走った。その穴をふさぐために、あたしは乳房のわきに二本の細いチューブを通された。肺に溜まった血を抜くためだろうか。それが一体どのような効果をもたらすのか医師に訊ねてみたが、眠たくなるような専門用語を羅列するだけで、結局なにも理解できないまま局部麻酔を打たれた。銀縁のメガネをかけて魚のようにのっぺりとした顔のそいつが、チューブを入れるために乳房に触れるのが嫌でたまらなかった。
 いつか殺してやる。そのときは本気でそう思った。
 チューブは父親の歯軋りに似た不愉快な音をたてながら、肺に向かって不規則な速度で進入した。そして、予定通りに肺の奥深くへ入ると余分に切り過ぎた皮膚を再び縫い付けた。
 あたしのからだから突き出た二本のチューブは、ひどく居心地悪そうにしなだれて困っているようにも見えた。
 やがて透明のチューブからは、ねっとりとした血が少しずつ出てくるようになった。血の色は思っていたよりも鮮明で、濃かった。そしてどちらかと言えば、赤よりも煉瓦の色に近いものがあった。あたしは退院するまでの約三週間、その管の中を流れる生命の基本原色を見続けることになった。
 信号の赤は、その色にとてもよく似ていた。
 スピーカーの女が不自然に上ずった声で、光化学スモッグ注意報だと繰り返している。
 だからなんなの。
 あたしは静かにそうつぶやきながら、信号が青に変わることを念じ続けた。ライトの中央では直立不動になっている黄色の人が描かれている。渡ってはいけないということだ。日中は自動切り替えになっているため、歩行者用押しボタンの装置は使用不能になっていた。
《ボタンを押してお待ちください》その部分がオレンジ色に鈍く光ったままになっている。あたしは無意味なことだと知りながらもボタンを何度も押しつけた。
 あたしの後ろでは中年の女がふたり光化学スモッグについて話していた。
「あれは嫌なものですねぇ」
「マスクがいいらしいですよぉ」
「でも娘がねぇ、ダサイって言うんですよぉ」
「お年頃ですものねぇ」
「光化学スモッグとは一体なんなのでしょうかねぇ」
「言われてみればそうですねぇ」
「嫌なものですねぇ」
「マスクがいいらしいですよぉ」
「でも娘がねぇ」
 信号はいつまでたっても赤のままだった。

 睡眠薬を飲み干す前にテレビをつけていた。友達に電話をしようとも考えたが、そこまで親しい友人なんていないことに気づいてやめた。
 その深夜の討論番組は始まったばかりだった。
(日本人と宗教・宇宙観)
 確かそんなようなテーマで、顔を見たことも名前を聞いたこともないような連中が朝まで論じている番組だ。
 予備校講師、自称タレント、小説家、占い師、投資家、大学教授。
 出口のない迷路をいつまでも歩き続けるように、彼らは表面的な理屈だけでつまらない威厳を保っていた。その中でも生物学者と書かれたプレートを机に置いた男が一番しゃべっていた。汚らわしいアゴひげを生やして、言葉が鼓膜に絡みついてくるような不愉快な話しかたをする男だ。
 あのね、空に浮かぶ星、アレをね、昔の人は魂と考えていたわけ、どうしてそんなふうに感じたのか、あのね、死ぬということはこの世界での消滅を意味するんですね、肉体が滅び去る、無ですよ、だからね、死と無はまったくの同意語なんですね、無とは、なにもないということですね、なにもないとは、存在しないということですね、分かりますか、あなた達に分かりますか、存在しないということは、それこそが無限の広がりを意味してるんですね、際限のない無ですよ、それはなにか、ねっ、分かりますか、ねっ、ねっ、アレですよ、空、空ですよ、宇宙そのものじゃないですか、死んだらお星様になる、古代から人はそう信じていたんですよ、あたってますよ、古代人の観念はあたってますよ、彼らはその観念を具体的に捉えたかった、捉えるにはどうすればいいか、目に見えるかたちとして、理論的な枠にはめようとした、どうするか、ねっ、分かりますか、そのために宗教が必要だったんですよ、人間は未知数なものを宗教に転換する癖がありますからね。
 そこで、もぐらによく似た男が反論した。投資家だ。
 冷蔵庫ですよ、死ってのはね、空っぽの冷蔵庫みたいなものですよ、そこになにを入れるかは個人の自由であってですね、あえて宗教を定義付けるのならここであるわけで、あなたのおっしゃる意味はどうもね、うん、死んだら無になるってのはちょっとね、どうかと思うね、それに安易に宇宙と繋げてほしくはないですね、価値観の違いによってその人の死後は決定するもんでしょう、死を単なる通過点にしてもいいわけですから。
 同じ理論で投資もできる。そんなことも言っていた。
 価値観によって死後が決まる。あたしは投資家の言った意味をしばらく考えてから、テレビのスイッチを切った。最後に映っていたのは、顔を赤くさせた生物学者だった。

 信号は青になった。あたしとふたりの中年女性が白線の消えかけている横断歩道を渡った。中年女性は機械仕掛けのおもちゃのように話すことをやめなかった。永久にその無意味な会話は続く気がしたし、それはそれでいいと思った。
 たくさんの車があたし達のためだけに止まっている。その中にあたしの好きな白い外国車は見当たらなかった。そのかわりに数人の運転手と目があった。みんな疲れた目をして、あたしのことを睨みつけていた。ひょっとしたら、あたしの見間違いかもしれない。でも、少なくとも楽しい顔はしていなかった。
 歩きながら、再び空を見上げた。あたしと雲の間に光化学スモッグが存在していることを考えてみたけれど、目に見えないそれをうまく捉えることはできなかった。
 途中で、ふたりの中年女性はあたしのことを抜き去った。そのひとりが手にした買い物カゴには本物のプードルが入っていた。頻繁にトリミングされているようなプードルだった。カゴのふちに前足をかけているそのプードルもやはり、運転手同様つまらなそうな顔をしてあたしと目を合わせていた。
 そして、そのほんの数メートルの横断歩道を歩き終える間にあたしは死のうと思った。

 そこに根拠などなにもない。もちろん死に対するイデオロギーもなければ、美学もない。破滅論者でもないし、麻薬中毒者でもない。あたしはハンバーグ弁当を買うために信号待ちしていた極めて普通のOLだ。
 ただ、あたしがあたしという限定された範囲に留まる理由なんてどこにもないことに気づいただけだ。
 その湿った横断歩道の上で。

 シーツは汗で絞れるほどになっていた。ひどく乱れたあたしの呼吸が、まるで風の音のように客観的に耳に入った。
 最初にあたしのことを見つけてくれるのは誰だろう。やはり婚約者だろうか。あたしは最後に壁に貼られた婚約者の白黒写真を見ようと思ったが、まぶたをうまく開けることができなかった。溶けたゴムの臭いがする。よく分からないが、あたしのからだが浮いているような気がした。
《死に際を演じるなんて容易いことだ。問題はそこに至るまでの過程を演じることだ》
 あたしの好きな俳優の言葉。ドイツ人で何本かの無名な映画に出演した。彼は必ず最後に殺される役を好んで選んだ。
 真夜中の交差点の中央であたしはその言葉を繰り返しつぶやいた、
「問題はそこに至るまでの過程を演じることだ、問題はそこに至るまでの」
 隣で名もない少女が不思議そうにあたしのことを見ている。
 冷たいベッドの上で睡眠薬を多量に飲んだあたしは、もう目覚めることもないだろう。そんな今のあたしが唯一できることは、夢の中に逃げ込むことくらいだ。
 暗くて寂しい交差点の夢だ。
「もう一度だけ言うけれど」と名もない少女は控えめに言った。「あたしが行き先を決めてしまったら、あなたは本当に消えてしまうのよ」
「いいよ、それでかまわない。でも、ひとつだけ教えて」とあたしは言った。
「なに?」
「消えるって、どういうこと?」
 名もない少女は、小さく静かに微笑んだ。

《死と無はまったくの同意語なんですね》
 テレビの生物学者はそう言った。
《価値観の違いによってその人の死後は決定するもんでしょう》
 投資家はそう言った。
 肺に二本のチューブを通していたとき、あたしは死ぬことについてなんて少しも考えていなかった。まだ若すぎたのかもしれない。

 交差点の中央で沈没船のことを思った。今のあたしとよく似ている。朽ちていくのをゆっくりと待つだけだ。


〈了〉

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