エンドケイプ

エンドケイプです。 作詞家で文章も書きます。

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[小説]六号

1  マオは慣れた手つきで薄く切った小さな肉の塊を素早く鉄の串に刺し終え銀色のトレーに置くと、吊り下げられている青いタオルで手を拭った。手についた血や脂を丁寧に拭うというよりも軽くタオルに触れているようにしか見えない。拭う必要性よりも儀式的作業みたいだ。  そして今度は塩を摘むと、既にガスの焼き台に並べられていた羊肉串に向かって無造作にふりかけた。適当にも見えるし適量にも見える。炎が肉を呑み込むように高く上がる。  あたしはそんなマオの流れるような動きを観察するのが日課にな

    • 与えられた仕事(ショート・ショート)

       今日も僕はその椅子に座る。  一度座ってしまえば業務が終わる時まで、立ち上がる必要はない。  それが僕に与えられた仕事だから。  役所の三階まで吹き抜けになったエントランスロビー、その中央の太い柱に一枚の絵が飾られている。質素な木枠に入った十号サイズの風景画だ。手前に小川が流れその奥に連なる山々が水彩で描かれている。ただの景色だ。タイトルや作者名が記入されたプレートもなく、サインも見当たらないその絵はいつ誰が描いたのかもどこの場所なのかも判らない。地元の著名な画家の作品

      • ゴジラ-1.0で思う事

        マイナスワンのマイナスカラー(モノクロ版)4DXを観てきました。 劇場鑑賞は3回目です。 モノクロなんだから当たり前ですが、たくさんの黒と灰色が織りなす作品で、カラーだと気に留めなかった風に舞う火の粉をついつい目で追ってしまう、なんてこともありました。 白って200色あんねんって言うとアンミカさんが脳裏に浮かびますが、モノクロ映画を観ると確かに白と黒の幅の広さに圧倒され、逆に制限された情報量によってカラーにはない奥深さも垣間見えたりしました。 それはそうと、やはり改め

        • ほどほどを知る事

          自分の完璧が決して第三者にとっての完璧ではない。 せっかくよい角(カド)がある創作物もヤスリをかけ過ぎてしまえばその角は取れて丸くなってしまう。そして、最後には削りカスの山を積み上げ跡形もなくなってしまう。 こうして多くのクリエイターはヤスリをかけ続けているうちに作品を世に出す機会を逃してしまう。造形物にしても言葉にしても同じことだ。 ヤスリはほどほどでいいのだ。角を丸くすれば美しいわけでもない。 そう言うと、今度は完璧を目指さない言い訳として機能してしまうから着地点は難しい

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        [小説]六号

          でも

          「でも」と言わないだけで、割と人生は変わると思う。

          トゲトゲ

          自分のからだにトゲトゲをつけていたら、周囲の人は触れたくないから遠ざかるし、近寄る人は対抗するために同じようなトゲトゲをつけてしまう。 何ひとつ良いことなんてない。 何ひとつ。 SNSの世界なんて、みんなモフモフしていればいいんだ。

          大丈夫

          知らない地下鉄の駅構内を彷徨っている。 しかもとてつもなく眠い状態でうとうとしながら歩を進めている。 まるで夢遊病者のようだ。 そんな自分に言いたい。 大丈夫。 それは夢の中だ。僕はとっくに眠っている。

          自信過剰

          自信過剰は比較的ネガティブな意味合いで使われることが多い。 根拠のない自信は持つべきではない、と。 でも、人が何かで成功する要素のひとつとして根拠のない自信がとても大きな役割を果たしていると思っている。 それに対して中身が伴っていようがいまいが、形成された自信というその力で目標まで走り続けることができる。 だから、僕は自信過剰な人を否定しない。 例え殻だけの空っぽなポジティブ思考でも、ポジティブに変わりはないのだから応援したい。そもそも殻がなければ中身は生まれないのだから

          自分のために何かをやる意味

          自分のために何かをやる意味 それは他人のために何かをしようとするからだ。 “自分のため”と“他人のため”は、人と、そこに張り付く影のように決して分離できない関係性を持ち合わせている。

          自分のために何かをやる意味

          全ての蚊は人工的に作られたロボット兵器

          タイトルで本文にきてしまった人も多いと思う。すまんね。 このように、例えばSNSで誰かが「蚊は人工的に作られたロボット兵器で日本にばら撒かれたんだ」と投稿したとする。 ん? 君は何を言っているんだ? とまず感じるのが普通だと僕は思っていた。 が、コメント欄にはそれを肯定する言葉が溢れていたりする。 「やはりそうだと思っていました」「知りませんでした、家族にも伝えます」などなど。なんなら「それはアメリカが作った」みたいな尾ひれがくっつき勝手にインターネットの大海をバシャバシ

          全ての蚊は人工的に作られたロボット兵器

          なんてことを簡単には言えない

           過去の“後悔”は未来の“後悔”じゃないし、  過去の“恨み”は未来の“恨み”じゃないし、  過去の“マイナス”は未来の“マイナス”じゃない。  だから、いつまでも過去を引きずってはいけない。 ーなんてことを簡単には言えないー  時間が“線”ならばココロは“点”である。  時間は僕らのまわりを常に流動している。  でも、ココロにはまるでタイムカプセルのように時を止め放置された幾つもの容器が転がっている。誰もがそんなタイムカプセルを胸の奥に埋めている。  僕にもあなたにも

          なんてことを簡単には言えない

          室外機に人権を

           突然だが、  エアコンの形をパッと想像してみてほしい。 どうだろう。  おそらくほぼ全員が、部屋の天井の片隅で冷風や温風を出している“室内機”を思い浮かべたのではないだろうか。  それは正解。あなたは何も間違ってはいない。 -だが、しかし-  忘れないでほしい、エアコンはその“室内機”の他にもうひとり、“室外機”がいるということを。  そもそも現代社会における我々の暮らしの中で切っても切れないとても大事な部分を占めているエア・コンディショナーであるが、そのエアコンを

          室外機に人権を

          既視感の正体

           僕は街を歩く夢をよく見る。  それも決まって同じように遠い昔「実家」があった東京都世田谷区の街だ。  もちろん知らない街よりも、記憶の片隅に残る街の方が、夢にとってもわざわざゼロから作り出す必要もなく好都合なのかもしれない。  街の雰囲気も構造も、そして実家もおおよそ丁寧に再現されているのだが、いざ目覚めてから思い返すとやはりその細部には違和感があったりする。  ここにそんな高いフェンスはおかしいだろう、あんなところに扉なんてある訳がない、そういえば狭い五丁目商店街にやた

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          エンドケイプ・プロフィール

          エンドケイプ クリエイター (作詞家・バナナアーティスト ・ 室外機マニア・ サバゲー・キャンプ・アマチュア無線3級) ●TV出演のご依頼に関しては提携事務所 FIT→ https://fit-fan.co.jp/ へお願いします。 ●作詞のご依頼は専属事務所B ZONE→ https://bzonecreators.com/ ●それ以外のお仕事案件・ワークショップ・取材等は僕の連絡先: endcape@sonzai.net までお願いします。 小説 ・ねぇワンハンド

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          心を置いてきた場所

          その人にとっては既に「過去」である記憶が、 別の人にとってはバリバリ現在進行形の「今」であったりする。 議論や説得が両者交わらず不毛なまま宙に浮く原因の多くは、そのためである。 そもそも見ている「時」が違うから、まずはそこから調整するべきである。 みんなが“今”を生きていると思ったら大間違いという訳だ。 時間は平等だが、心を置いてきた場所から時計の針が止まっている人も多い。 そこに留まることを望んでいる人もいれば、苦しんでいる人もいる。 そもそも心を遠い昔に置いて

          心を置いてきた場所

          「街とその不確かな壁」のレビューではないレビュー

          村上春樹さんの「街とその不確かな壁」を読んだ。 この作品は1980年『文學界』で発表された「街と、その不確かな壁」と名作「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を経て村上氏が書きたかったことを今の彼の言葉で新たに書き下ろした長編になる。 すでに方々であらゆるレビューを読むことが出来るので本文に沿った感想は書かない。 ここでは面白いつまらないや、玄人向けの難しい表現や他の作家を引き合いに出すことによって“それっぽく見えてしまう”堅苦しいレビューではなく、この街(小説)へ

          「街とその不確かな壁」のレビューではないレビュー