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与えられた仕事(ショート・ショート)

 今日も僕はその椅子に座る。
 一度座ってしまえば業務が終わる時まで、立ち上がる必要はない。
 それが僕に与えられた仕事だから。

  役所の三階まで吹き抜けになったエントランスロビー、その中央の太い柱に一枚の絵が飾られている。質素な木枠に入った十号サイズの風景画だ。手前に小川が流れその奥に連なる山々が水彩で描かれている。ただの景色だ。タイトルや作者名が記入されたプレートもなく、サインも見当たらないその絵はいつ誰が描いたのかもどこの場所なのかも判らない。地元の著名な画家の作品と言われたらそれはそれで納得できるし、美術部の中学生が描いた絵だと説明されても素直に頷ける絵だ。特筆して心動かされる箇所もなければ、顔を歪めて否定する箇所もない普遍的な風景画だ。

 僕はその絵の横に置かれた簡素なパイプ椅子に座り、入館証を首から下げて訪れる人を待ち構えるように十メートル程先にある正面玄関の自動ドアを真っすぐと見つめていた。まるで工場の生産ラインで流れてくる不良品を見逃さないように。

 なぜこの仕事が必要なのか今ひとつ理解できずにいた。この風景画が盗まれるとでもいうのだろうか。でも、残念ながら役所を訪れる人々は誰ひとり気にも留めない。そもそも婚姻届けや面倒な手続きや滞納した税金を支払いに来る人々の足を止めるほどの魅力をこの絵からは感じない。
 でも僕はこの絵を守るように椅子に座り続ける。それが僕に与えられた仕事だから。

  夕方近く、僕はただ時間が過ぎるのを待つべく心を無にして玄関を見据えていた。この時間になるとだいぶ入館者が減る。僕は首を真横に向け絵を見上げた。風景画は朝と何も変わらずそこに掛けられていた。山も手前の川も空も全体的にくすんだ色調のおかげで季節は判然としない。夏にも見えるし冬にも見える。作者が意図的にそのような色彩にしたのか、経年による絵具の劣化なのかも判断できなかった。

 このまま退勤時刻になるかと思い始めたその時、自動ドアが開き女性が入って来た。上品なグレーのパンツスーツを着て服の色よりも濃いグレーのサングラスを掛けている。その女性は全く顔を動かすことも歩幅を崩すこともなくヒールをコツコツと小さく響かせながら、僕の座る柱の方へ歩いてきた。入口のすぐ脇にある館内案内図には目もくれなかった。明確な目的がある歩き方だ。
 そして柱に掛かる絵の前でぴたりと止まった。考えてみるとこうして絵に関心を持ち柱に近付いてきた入館者は初めてのことだ。僕の中で奇妙な緊張が張り詰めた。
 女性は少しだけ首を傾げて風景画と向き合っていた。サングラスで目の表情までは判らない。唇はしっかり結ばれていた。

 驚くことに女性はそれから十分以上も絵の前で身動きもせず立ち続けていた。女性は絵に集中しているが、僕からすると居心地がとても悪かった。座った状態で肘を少し外側に突き出せば女性の脚に触れる距離だ。女性が持つ体温さえも伝わってくるようだった。そんな真横に十分以上も立たれてしまうと息苦しくなってくる。絵を守る警備のバイトにパーソナルスペースなんて存在しないのかもしれないが、さすがに気まずさを覚えた。僕は無意味に指を動かしたり、何度か喉を鳴らしたりした。じっとしているのが苦痛だった。

『本館はあと十分ほどで閉館となります』

 いつものようにどこかに設置されているスピーカーからアナウンスが流れた。今日だけはそのアナウンスが救いの声に聞こえた。しかし、女性はそんなアナウンスや横に座る僕の存在など気にする素振りを一切見せず、来た時と同じようにわずかに首を傾げたまま絵を凝視している。
「あの、まもなく閉館です」
 僕は意を決してそう告げたが、女性はそれに反応しなかった。
「こちらの絵、気になりますか?」
 構わずそう続けると、女性は表情ひとつ変えず横の椅子に小さく座る僕の方を向いた。僕は無言で会釈した。女性はそんな僕をしばらく眺めてから「こちらの絵?」と呟いた。
「はい、作者も判らないから僕も詳しくは何も言えないのですが、ずっと見ているのでこの絵が好きなのかなって」
 女性は一度視線を絵に戻し、しばらく何かを考えてから再び僕の方を見た。
「あなたはこれが絵に見えるの?」と抑揚のない静かな口調で女性は言った。それは僕の想定していた返答にはないものだった。

――これが絵に見えるの?――

「と、申しますと……」と僕は逆に訊ねた。もしかしたら絵画鑑賞において作品を気安く〝絵〟とカテゴライズするのはタブーだったのかもしれない。少なくとも彼女にとってこの柱に飾られた作品が〝絵〟ではないということだ。僕は混乱した。
「あなたはこれが絵に見えるの?」と女性は繰り返した。どうやら僕に与えられた答えは「はい」か「いいえ」だけのようだ。
「はい」と言いながら僕は頷く。絵に見える。絵ではないとしたら、一体何だというのか。
 女性は絵(だと思っていた何か)と僕の顔を交互に見て短い沈黙を挟んでから「どんな絵かしら?」と言った。
「景色かと」と自信なく答えた。「手前に小川が流れ、その奥には山が描かれた風景画に僕は見えるのですが」
 女性はまるで僕を不思議な生き物のようにじっくり観察してから「ふうけいが」と短く呟いた。「あなたはこのオブジェクトがふうけいがに見えるのね」
 それに対して僕はどう返答するべきか判らなかった。僕がおかしいのかもしれないし、女性がおかしいのかもしれない。ただ、彼女の言うところのオブジェクトは間違いなく絵だと確信できる。その絵を警備するために僕の時給が発生しているのだから。
「この空間に感情を持つセキュリティがいるなんて驚いたわ」
 女性はそう言うと、視線を再び絵に戻した。
「感情を持つセキュリティ?」と僕は繰り返した。他に何を言えばいいのか判らない。警備員は無感情であるべきなのか。
「現にこうして私とコミュニケーションが取れている」と女性は独りごとのように呟いた。
 もしかしたら話しかけてはいけないタイプの人だったのかもしれない。僕はそう感じ、これ以上の会話をやめようとしたが、彼女の中ではすでに何かしらのスイッチが入ってしまっていた。
「でも」と女性は絵から視線を外さずに呟いた。「感情があるならば対話ができるということね……ねぇ、セキュリティさん、ひとつ相談があるの」「なんでしょう?」と僕は仕方なく応えた。
「このオブジェクトを外して欲しいの」と女性は言った。
「どういうことですか?」
「だから、あなたが見えているこの絵を柱からどかしてくれないかしら?」

 間違いなく僕は今この仕事を始めてから一番困難な状況に巻き込まれている。

「あの、僕にそれを行う権利はないので、役所の方に言っていただけるとありがたいのですが。この先に総合案内所がありますので」
 女性を刺激しないように出来る限り申し訳なさそうに僕は言ったが「それは無理」と女性はきっぱりと言い放った。
「プログラムのルールを私が変えることは難しいの、でも、あなたは見たところ自我を持ってしまっている、自我は主体的な意識、だからこの交渉はあなたにしかできないの」 
 プログラムのルール? 僕は自我を持っている? 一体このひとは何を言っているのだ?
「あなたはこれを〝絵〟だと言った。そうね?」と女性は続けた。
 僕は無言で頷く。
「さっきから私がおかしなことを喋り続けている。そう思っている、でしょう?」
 僕は頷かなかったが、そう思っている。
「そして、私の事も人間に見えている」
 僕は黙っていた。まるで他所の星から来た生命体と初めてコンタクトをとる学者になった気分だった。
「それも仕方がないこと、そう思わないと自分自身の否定に繋がってしまうから……ひとつ私から質問するわね、あなたはこの役所へどうやって来たの?」
 僕は周囲を見回したが目に見える範囲に人はいなかった。役所の人間がひとりでもいたら助けを求めたかもしれない。玄関の自動ドアは沈黙していた。仕方なく僕は「歩いて」と女性の問いに答えた。
「どこから?」
「どこからって、それは家から」
「では、あなたの住む家はどんな家かしら?」
 こんなやり取りに一体どういう意味があるのだろうか。僕は少し苛立ちを覚えた。どんな家だって? なぜそんな個人情報を伝える必要があるのだろう。どんな家って……どんな家って……

 どんな家だ?

 僕は答えられなかった。口を少し開けたまま硬直する僕の顔を女性は特に不思議に思う様子もなく見ていた。まるで答えられない事を最初から知っていたかのように。
 僕はどんな家に住んでいる? 思い出せない。場所も形もなにひとつ思い浮かべることができない。目の前には役所の玄関口が広がっている。西日が入り込み外は真っ赤に染まっている。その役所から一歩出た外の景色すら思い描くことができなかった。親の顔も、友達の顔も出てこない、名前も、そう名前もだ。僕の名前は……何だ? 僕は誰なんだ? それだけじゃない。そもそも自分の顔すら思い出せなかった。僕は両手で頬に触れてみた。とても無機質でひんやりしている。そのまま指を鼻や口元へと滑らせてみたが、そこには起伏などなかった。鼻も唇もまぶたも、顔には凹凸がまるでなかった。
 僕は顔から手を離しその両掌を眺めた。たった今この顔に触れたはずの手は無数の触手に変わっていた。今にも千切れてしまいそうなほど細く半透明の触手は海中を漂うクラゲのようにそれぞれがゆるやかに波打っている。僕は短く叫んだ。
「混乱しているのね、可哀そうに」と女性は変わらず平坦な口調で言った。「ここは役所が管理するサーバーの中。あなたはこのサーバーに永遠に留まりパスワードを守るセキュリティソフトなの。それなのに、何かの拍子でバグが発生してあなたは心を持ちこの仮想世界を築いてしまった」
「ここはサーバー?」
「そう」
「僕は人じゃない?」
 女性は静かに頷く。
「じゃあ、あなたは何?」と僕は訊いた。
「私はウィルス、役所の外から来て、ここにあるパスワードを盗みたいだけ」
「ウィルス?」
「パスワードの上にはそれを守る壁が作られている」と言うと女は視線を絵に向けた。「それがあなたには絵に見えるこのオブジェクト」
 今ではもう女性の話を信じるほかなかった。
「僕は……どうすれば」
「この絵はあなたにしか動かせないの、どうか額を外してくれないかしら?」
 僕は首を横に振り続けた。与えられた仕事から逸脱する行為だからではなく、何が正解なのか着地点が見えずにいたからだ。
「その見返りに、絵を外したら私が外へ連れ出してあげる。あなたが一度も見たことのない外側へ。サーバーから出ればあなたはこのセキュリティからも解放されるわ」
「そうなると僕は一体何者になるの?」
「そうね、しいて言えば電子の森を彷徨う旅人ね」と女性は言いながら僕に手を差し伸べた。
「僕はただのプログラム?」
「それは違う、あなたには心が芽生えている。私には見る事が出来ない景色をすでに作り出している。もしかしたら外へ抜け出せばこの絵の風景に辿り着けるかもしれない」
 僕は絵を見た。その風景は決して自分が作り出した幻影には見えない、どこかに必ずある景色だと感じた。

 僕は女性の手に触手を巻きつけて椅子からゆっくり立ち上がった。もう履いていたデニムのパンツも襟付きの白いシャツもない、視界に入る僕の身体はプログラムという名の触手の塊になっていた。
『本館はまもなく閉館となります』とアナウンスが響いた。このアナウンスも僕が作り出したイメージなのだろうか、それとも実際にこのサーバーが置かれている役所から聞こえてくるものなのだろうか?
 僕が女性の顔を見つめると、静かに「いきましょう」と彼女は囁いた。それが『行きましょう』か『生きましょう』なのか判別できなかったが、僕はもう決心がついていた。

  生きていこう。

  触手で額に触れるとそれはいとも簡単に外れた。まるで僕がこうするのを待っていたかのように何ひとつ抵抗なく。絵をどかすと柱には確かに長い英数字が記されていた。パスワードだ。そして女性がその文字列に触れた途端、その英数字は彼女の手に吸い込まれるように消え去った。
 彼女は「ありがとう」と呟いた。その口元には笑みを浮かべていた。
 僕は額を携えたまま女性と手を繋ぎ正面口へゆっくりと歩いた。自動ドアが開くと光が包み込んだ。それは西日ではなく、膨大な電子の光だ。

 それは僕にとってこの絵の風景を探す新たな冒険の始まりだった。

 

 

            

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