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目に映らない心の傷のほうが厄介

75回目の終戦記念日を前に

なんで戦争もない時代なのに、ワガママ言うんじゃ?

戦争の傷みが語り継がれないから、また戦争になりそうで心配だ

毎年この季節になると、年長の人から、よくそんなことを聞く。

だけど負傷の様子が目に見える戦争より、企業間あるいは企業内部での熾烈な競争や、見えない差別、言葉の暴力によってからだのなかで噴き出している見えない大量の血しぶきのほうが、じっさいは熾烈だ。

見える傷なら味方の誰もが手を差し伸べるだろうが、見えない傷は、同じ傷みを感じたことのあるごくわずかの者しか、同情しない。

そして競争による傷である場合、周囲にいるのは倒れた人を打ち負かした敵であるから、救いの手は期待できない。

周囲は敵ばかりなので誰に相談することもできず、ひきこもる。逃避する。別の世界へ没頭する。

戦後75年目の夏。

若者たちの多くは、見えない戦争にさらされ10代から充分に戦っている。

東日本大震災のあった2011年を境に、各年代層の自殺者数は減少の一途であるが、19歳以下だけは、いまだ微増している(厚生労働省自殺対策白書 10ページ 第1-8図)。

デフレで親世代が苦しい思いをした、あとの時代にだ。微増とはいえ、10代の死亡原因の1位が自殺ということをみれば、彼らにとっては日常がすでに戦争なのだということを、年長世代は思いやらねばならない。

そうでなければ、いまも彼らにとっては戦争なのだということを理解しなければ、物理的な戦争を恐れている場合ではない彼らのことを、ほんとうには理解できないし、物理的な戦争を食い止めることも、できない。

だってココ、日本だもん

昭和40年生まれの私たちは、「戦争のない時代に生まれて、しあわせだね」とよく言われた。

おかずを残そうものなら、

あなたが残したその一口で、いまにも餓死しようとしているアフリカの子ども何人が救えると思うの?

などと、しばしば言われた。

そう言われると、嫌いな食べ物でも残さず食べるしかなかった。

何十年かたつと、マクロビ派の人たちが、ピーマンやトマトは身体を冷やすから、熱病のとき以外は食べてはいけない食べ物だったと言いはじめた。

トマトやピーマンを嫌う子どもの感性は、間違っていなかったんじゃないか!

また昭和の頃てんこ盛りに使われていた着色料や保存料などの食品添加物のせいで、数々の不調に見舞われている人がいる。

大人たちはまちがっていた。食べたくないならば、食べないほうが、健康的だったのだ。

いまの子どもたちに同じこと(残すと、発展途上国の子どもたちに申し訳ないと思わないのか、という趣旨のこと)を言うと、

ここは、日本です。

と、返ってくる。

自分が子育てしていたころは、それは先進国に生まれた特権をふりかざす暴言に聞こえた。

でもそれも、違った。

ここはここで、大変なんだから。
食べ物は足りていても、こころは大変なんだから。
悪いけど、アフリカの子どものことなんて気遣っていられない。

内心は、そうだったのだろう。

なんたってこの国は、10代の死亡原因の1位が自殺であるという、韓国と並び先進各国のなかでも珍しい国なのだから。

遠方からの攻撃は、殺す側も重い

話はまったく逆になるが、見えない殺しは、殺す側もシンドイという話。

返り討ちのリスクを負いながら目の前で銃で人を殺すよりも、遠方からボタン操作ひとつで相手を殺すほうが、殺す側の精神状態はひどくなるということを、ミステリー作家のジェフリー・ディーヴァーは『ゴースト・スナイパー』で克明に描いている。

これからの時代にもし戦争が起こるとしたら、おそらく遠方からボタンひとつで大勢を殺す方法が主流となるだろう。

明らかに意図してボタンを押しているのに、「よく見えないから、自分のせいではない」と解釈してしまうことも可能であるという、〝迷う余地〟が、人を想像以上に苦しめる。

これからの物理的戦争においては、加害側もおおいに心理的ストレスを負う可能性がある、ということをジェフリー・ディーヴァーは暗に示唆していた気がする。

この世は、見えない力に支配されている

話を戻す。
競争やイジメにおいては、加害側は加害側で自分がこぼれ落ちずに生き抜くのに必死すぎて、無意識のうちに蹴落とした相手のことなど、ほとんどよくわかっちゃいない。

つまり加害の意識すらない。

蹴落としたことに気づきもせず、見えない大傷を負わせ人を自死へと追いやったり。

見えないボタンの先で、何不自由ない日常を一瞬にして奪ったり。

インターネット上に喜びを描けば、その日苦しんでいる人に、意図しない羨望を抱かせてしまう。

見えない作用の真実は、「あの世」(彼岸)にだけあるんじゃない。

この世(此岸)だって充分、見えない力に支配されている。

よかれと思ったひとことが、まわりまわって誰かを殺す。

スギハラビザは6000人のいのちを救ったが、映画「杉原千畝」のフィクションがありえたとすれば、原爆開発した科学者をも生かしたことになり、めぐりめぐって結果的に、30万人超の日本人を殺したことにつながったのかもしれない。

「縁起」がどうめぐってしまうのか、ボタンを押した本人にも、最後まで見通すことなんてできない。

だから、知らんぷりでいいというわけにはいかない。

だから、神社へいっていつも「ごめんなさい」を聞いてもらう。

だから、ちょっとイイコトをするたびに、傲慢になりそうな自分を消すためにちょっとヨクナイ遊びもしてみないといけない。

誰かが正義を通そうとすれば、蔭で殺される人が出てしまう。

それが、この世(此岸)の常。

生きているあいだ、少しだけ善意を増やし、できる範囲で悪意を消そうとしつづけることしか、私たちにはできない。

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