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カルトや路上生活という特殊社会の幸福度
やっほ〜。今日は、カルトや路上生活といった独特のコミュニティに所属した人たちが、なぜなかなか抜け出せないのかの蓮沼にハマってみよう。
いまの日本では、自分のお金を増やすこと、減らさないことに価値が置かれているよね。
それでいて、都市部のメンタルクリニックはどこも満杯で予約が1ヵ月待ち。幸福度が高いとは、とてもいえない。
民生委員として高齢者宅を訪問をしていると、機関銃のように小一時間もお話しくださるかたが相当数いらっしゃる。生身の人間と会話をするのが、さぞかし久しぶりだったのだろう、と思えたりする。
内閣府が平成21年12月に発表した「高齢者の生活実態に関する調査」結果によれば、独居高齢者のなかで、人との会話が「2~3日に1回以下」と回答した男性が41.2%、女性も32.4%。
毎日つながれる仲間もなく、人との会話もほとんどなく。
ただ消費し、病に備え、病気やケガをしたらリハビリをしてゆく日々。
結婚していたとしても、伴侶が亡くなればいつかは独居。
そんな将来が待っている一般社会より、お金を失ってもなおつながっていられる縁があるならば、そうした場所のほうが、もしかすると人生の幸福度は、高いといえるのかも。
人は、最終的にはお金より〝つながり〟を求める
以前、「カルトと伝統宗教」をテーマにした催しへのアンケートで、こんなコメントをいただいたよ。
かつて知り合いの精神科の医師が「カルトのマインドコントロールから抜け出すのは、薬物中毒の治療より難しい」と話していました。カルト時代の仲間が、病院にまで押しかけて来てしまうのだそうです。その人たちの顔をみると途端に「患者」は浮足立ってしまい、カウンセリングが出来なくなる、とのことでした。
このコメントを読んで私は、生活困窮者支援をしている別の知人僧侶から聞いた、この言葉も思い起こしちゃった。
路上生活者にアパートを手配して住所を確保し、生活保護申請しても、またかつての仲間が恋しくて路上へ戻ってしまうことがけっこうある。一般の隣人知人とのつながりに較べて、路上生活でできたつながりっていうのは、それほどまでに強固なんですね。
これらの話から感じられたのは、いまの一般社会ので、安心して集える仲間をもつことが、いかに難しいか、ということ。
ひとたび強固な人間的つながりをもつと、人は用意された安全な家や定期的な収入(生活保護など)を投げうってでも、そこへ戻ってしまう。
つまり人は極限状況を経験すると、「お金」よりも「つながり」を求めるのだということが、これらのエピソードからは読みとれる。
私たちのほとんどが「仲間」と思ったり語ったりしている人のほとんどは、会社や学校という〝たまたま所属した組織〟の「同期」や「同僚」であり、その組織から抜けてしまってからも生涯語らえる友といえる人は、ごくわずかなんじゃないか。
われわれが高度経済成長以降、あれほど毛嫌いして捨ててきた〝田舎〟〝ムラ〟町会や自治会といった〝前近代的・封建的組織〟の場合は、違ってたはず。
死ぬまでその地に過ごすと決めた場所で、おなじ慣習のもと幼少から生活をし、風水害や台風のときはたがいに扉を補強しあい、農作業を手伝い、ともに支えあって暮らしてきた仲間です。営業成績を競わせる企業体とはちがって、そのコミュニティのなかで何かを〝競う〟ことは強要されない。
こんなふうに地に足のついた〝仲間〟を、いまの社会でもつことは、とても難しいと思います。
カルトにしろ路上生活にしろ、そこでの仲間は境遇が似ていて、〝かけがえのない仲間〟になりうる。
その輪に加わざるをえなかった互いの辛い体験談に共感しあい、全財産をうしなっても、もちつもたれつでつながっていられるのだから、たいへんに強固な仲間だと思う。
一般社会で、そこまでの強固なつながりをみつけることが難しい。そんな世のなかだからこそ、ひとたびカルトに入ると抜け出すことが難しくなるのではないか。
宗教は、危険なのか?
カルト教団とおぼしき宗教に所属している人に、
「その集団にいたらお金をせびりとられるばっかりでしょう?」
「その集団は自由もなく、おかしいでしょう?」
「こっちに戻ったほうが安全で、いいに決まっているから」
と論理的に説明しても、彼らは容易に集団の外へは出ようとしない。
なぜなら、全財産をうしなってもつながっていられる強固な仲間が、そこにいるから。
カルトが本当に危険なケース
むろん、マインドコントロールにより判断能力を失わせて金品を捧げさせたり、監禁状態にして客観的な判断力を奪ったりするという非人道的な行為が行われている場合には、危険なカルト集団であるといえる。
強引な勧誘や、「信徒をやめたい」と切り出した場合に大勢で家にあがりこんで何時間も居座ってひきとめるなど、憲法20条の信教の自由に違反する行為も散見される。
しかし、新宗教といわれる中でも、半世紀以上の歴史があり多くの人に信奉されている宗教集団のなかには、マインドコントロールも軟禁監禁も強引な勧誘もなく、やめたいときには内容証明郵便ひとつで脱退できるというところもあるわけで。
伝統仏教でも、教えより金銭崇拝になっているケース
逆に、伝統仏教寺院であっても、釈尊の教えなどそっちのけで墓地運営の収支計算にご執心な寺だって、たくさんある。
遺憾ながら、終活専門行政書士としては、「伝統仏教ならどこも安心安全でオススメです」とは、とても言えなくなっていると感じてしまう。
お布施の額が足りないと言って、封筒を突き返された
言った金額が支払えないなら通夜葬儀に行かないと言われた
最近では、
「そんなに払えません」と言ったら、「大丈夫ですよ、分割で」と、ローンの申込用紙が差し出された
というお寺まで出現している。
一般社会の金銭崇拝は、危険じゃないのか?
いっぽう、カルト的な宗教集団や路上生活といった特殊コミュニティに属していない、一般社会に暮らす側はどんな信念をもっているかといえば……
「1ヵ月で爆速で稼ぐノウハウ」
「100万円の講座がスルッと売れる」
「あなたも半年でオクゴエ」
巷のSNS広告は、こんな見出しでいっぱい。
お金は当然、あればあるほどいい!
お金を貯めこんでおかないと、老後が大変なことになる
マイナス金利だし、国民年金だけでは月に6万円強しかもらえないのだから、投資をして預貯金を増やしておかないとインフレについてゆけない
おそらくどれも、「正しい」と感じる人のほうが多数だとは思うけれど。
でもそうやってお金を貯めこんで、幸福になれているんだろうか?
そんなはずはない。なぜなら、お金はほんらい、感謝の気持ちの交換として渡すべきものなのだから。
貯めこんでいる、ということは、感謝の気持ちを渡せていないということ。
貯めこむ金銭も、感謝の気持ちとは関係なく得た金銭であることが多いんじゃないだろうか。
会社から命じられた目標数値をクリアするため、ほしいと言っていない人にまで頭を下げつづけて達成した営業成績。
もともと5倍の利益を乗せた表示価格を「今だけ70%引き」とうたったネット広告で釣られた人に、薄利多売で売った商品。
そうしてようやっと貯めこんだお金を、さらに金融会社に任せきりで興味も関心もない会社の株で運用してゆく……
いま私たちが手にしているお金のほとんどは、感謝の気持ちの交換で得たお金とはいえないのかも。
これははたして、狂気の沙汰ではないんだろうか?
あなたが病気になったとき。あなたが災害や盗難被害で一文なしになってしまったとき。助けてくれる人が何人いる?
宗教は〝お金を手放したほうがよい〟と教える
キリスト教をベースとする欧米では、ノーブル・オブリージュといって「それなりの身分や地位を得た人は、社会に尽くす義務がある」と考えられており、寄付をしたほうがよいと考える文化がある。
イスラーム社会でも、「お金はアッラーの神からの預かりもの」、「持ちすぎると神がお喜びにならない」と考えられているので、モスク側が請わなくても多額の寄付が集まるんだそう。
お金が社会へ巡らされ格差を均すためのフィルターとして正しく機能しているならば、宗教団体の存在意義は認められる
〝一億総中流〟といわれたのちに格差がひろがったいまの日本社会では、周囲に合わせたい・周囲とおなじくらいでないと恥ずかしいという国民性もあり、〝お布施の目安〟がたえず話題となる。
そのため、「それぞれが状況に応じて手放したい金額を手放す」ということが実現しづらくなっている(経済成長前はもちろん、富裕層はたくさん布施するという、ノーブルオブリージュが成り立っていたと思う)。
また、江戸時代の寺請制度の名残りで、寺側も「寺の修繕費などは地域の檀信徒が出し合うもの」と認識しているので、「こんど本堂を建て替えることになったから、1口50万円で布施するように」などと当然のことのように要求してくる。
つまりお布施といいつつ一定額の目安金額が指定されており、信徒の側が喜んで手放している金銭ではなくなっている。
この事実が、寺離れや墓じまいがどんどん増える要因となっているのは明らか。
感謝の気持ちとして交換される富が減り、競争ばかりが激化したら、世のなかはギスギスする。
それならば、宗教団体が富める人から財を預かり、持たざる人たちへ巡らせたらよい。(←諸外国では、いまも成立している)
宗教団体にまわるお金は、喜んで手放されるものでなければならない。
こうした大原則が成り立っているならば、宗教団体は格差を均し、社会を健全化するフィルターとして、ほんらいの役割を果たしているといえるんじゃないだろうか。
逆に、マインドコントロールによって強制的にまきあげられる金銭や、個々人の資力に関係なく一定額以上の布施を強要する状況では、宗教がその社会において正しく機能しているとはいえない。
昔は、一文なしになったら伝統仏教寺院が助けてくれた!
たとえば信徒が一文なしになったとき、お寺へ寝泊まりさせてくれ、しばらくの間食べさせてくれ、仕事探しも手伝ってくれるならば、誰しも余力があるときは、布施することを惜しまないはず。
昭和の中ごろまでの菩提寺は、いずこもそうだったと思う。
昭和1ケタ生まれだった私の父も、東京大空襲で焼け出されたあと1ヵ月くらい、一家全員、菩提寺で過ごさせていただいたと言っていた。
寝泊まりできないまでも、せめて「みとりステーション」に
いま日本では、冒頭に掲げたとおり独居の高齢者がどんどん増えていて、お墓がお寺にあっても親族(子や孫)は離れて住んでおり、自分が危篤になってもすぐに駆けつけられないという人が増えている。
そして、子や孫と同居していない高齢者は、伴侶が亡くなれば独居となる。平均寿命の違いや婚姻時に男性のほうが年長であるケースが多いことから、その多くは女性。遺族年金でほそぼそ暮らしているため、つながりを求めて外へ出歩くこともできない場合も少なくない。
かつては当然視された親族の支えは期待できなくなりつつある。子どもと同居している65歳以上の人の割合は22年に34%と、30年間で23ポイントも下がった。一人暮らしの割合は12%から22%に上がった。
2023年11月18日 5:30 (2023年11月18日 19:38更新)
お寺で月に数回でも終活セミナーなど集いの場を常設し、地域の人々がたがいの辛い体験や悩みを語りあう場となり、「なにかあったら頼れる場所と仲間がここにいる」と確信できる場になれるとしたら。
「私が死んだら、遺った預貯金は寺へ寄進します」という人がどんどん増えるんじゃないか。
経済的余力がなくひとり部屋にこもっている人々に、集いの場の運営や管理を任せられれば、参加者のうち余力のある人からの布施をそのかたがたへまわしてゆくことも可能。
お寺の側も、墓じまいがどんなに増えようとも、最後の1つの墓がしまわれるそのときまで、お寺にはなすべきことができる。
この間に多くの檀信徒の生老病死のエピソードが語られ、人間模様のアーカイブとなったお寺は、もういちど若い信徒を増やしてゆくことができるようになるだろう。
人は、極限状況に置かれたら「お金」よりも「つながり」を優先する。
全国の寺社は、集いの場を提供すべき。
「つながり」のある人生のほうが、幸福度が高いからた。
そうなればきっと、喜んで寄進される金銭も増え、この国でも宗教法人/団体が社会のフィルターとしてほんらいの機能をとりもどすことができるだろう。
ではまた。明日も蓮沼へハマに来てね♪
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🌟ご喜捨で経済を巡らせよう(^^♪🌟 noteの収益は各種催しの開催費用や、寺社を支援する協力団体(hasunoha、自死自殺に向き合う僧侶の会等)へ寄付させていただきます。 寺社を地域の核=「みとりステーション」として、誰もが不安なく年齢を重ねてゆけるよう活動しています。