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ロシアに遺された鳥居を見るためだけにサハリンへ行った話⓪プロローグ


日本最北端の街 稚内

今月、入国規制はだいぶ緩やかになっているものの、会社勤めの身としては、まだまだ、海外へ出かけられる事情ではなく、北海道を旅行した。
私は夏の暑さが嫌いで、大学の頃から、夏はロシアだったりモンゴルだったり、涼しい地域で過ごしてきた。
その涼しい北海道の旅の最終地点として稚内で一日過ごした。最終日、生憎、雨であったこともあり、博物館を中心に巡ることにした。
稚内にある博物館に、「北方記念館」や「稚内市樺太資料館」がある。この二つの資料館では、日本国内の博物館の中でもトップレベルに樺太の展示がかなり充実していた。日本国内で忘却されがちな、日本領樺太を忘れるなと言わんばかりに。
この展示を見て、そういえば、2019年(令和元年)夏にサハリンを訪れたときのことを記録していないことを思い出した。コロナ禍・ウクライナ侵攻が始まる前、まだ、日露関係が正常であった頃の様子を記していきたいと思う。一人の日本人として。

稚内北防波堤ドーム。かつて南樺太への航路の乗換駅、稚内港駅であった。
稚内にはロシア語表記も多くみられる。「両替 稚内信金」と書かれている。
稚内市樺太資料館には国境標石のレプリカが展示されている。
日本とロシア帝国(→ソ連)国境にあった。

日本領南樺太

樺太を形容する言葉はいくつかある。まず北海道の北にある島を「樺太・サハリン」と呼ぶ。
1905年にポーツマス条約によってロシア帝国から割譲された北緯50度以南の樺太は「南樺太」として、大日本帝国が領有していた外地であり、統治機関は「樺太庁」であった。第二次世界大戦末期にはソ連が樺太に侵攻し実効支配、終戦後、北方領土も含めて「サハリン州」になり今まで続いている。1905年から1945年まで日本統治下にあったわけだが、傀儡国家として、実質的な外地であった満洲国や外地である朝鮮・台湾・関東州などと比べると、南樺太や委任統治領の南洋諸島は忘れられがちである。

稚内のすぐ北は終戦まで日本統治下だった。


ロシア領サハリン州

1945年に日本からソ連の支配下となり、南樺太はサハリン州となった。
冷戦終結ごろまでは自由に立ち入ることが出来なかった島も、1990年代より日本人を含む外国人観光客に開放され、2010年代には、成田・新千歳からの直行便や稚内からの国際航路によって比較的簡単に訪れることが出来た。
ロシアの観光と言えば、モスクワの赤の広場やサンクトペテルブルクのエルミタージュなど煌びやかなものであることが多いが、サハリンの観光資源と言えば、これらとは無縁である。ロシア人に対しては自然が大きな魅力となるであろうが都市観光中心の日本人にとっては、ほぼ日本統治下の遺構巡りがメインである。そう、サハリンには40年の日本統治の面影がいまだに遺されている。

ユジノサハリンスクに遺る樺太庁博物館。今なお、サハリンの象徴的な存在だ。

2015年の訪問の反省

私は2015年に稚内から、コルサコフ(大泊)まで国際航路に乗り、訪問した。
当時、ロシア語はほぼわからず、右も左も分からなかったのだが、フェリーで知り合ったロシア人の助けを借り、ユジノサハリンスク(豊原)・ホルムスク(真岡)・ポロナイスク(敷香)などを訪れた。その後、大学の第二外国語でロシア語を学んだり、旧ソ連の国を訪れていく中で、割と旅に慣れてきたので、もう一度、サハリンを訪れてみたくなった。前回、おおむねの観光地は訪れていたのだが、サハリンに遺る鳥居は見ていなかった。これを見ずに死ねるかという思いで、もう一度だけ、サハリンへ行ってみることにした。

ホルムスク(真岡)には王子製紙の工場が遺る。

2019年にサハリンを訪れた際の旅行記↓


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