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ひゃく・てん! ~その拾~

あら・まし!

~新たなパターンの転移に混乱するヒマもなく威力マシマシの詠唱を聞いた件!~



 和雲の予想どおり、難なく目的地につくことができた。
 蔵人所の玄関口らしき小局こべやから簾越しに声をかける。とはいっても、女たちの職場とは違い、基本的に男たちの職場は簾を鴨居かもいの位置まで巻き上げて留めており、下を通りやすくしてあるので身を隠す場所はなかった。
 呼ぶ声に応えて出てきてくれた雑色ぞうしきという見習い蔵人の若者に文書を託す。
「ええと……い、一の宮さまの遣いのものです。頭弁とうのべんさまにお届けを、よろしくお願いいたします」
「たしかに、承りました」
 貫禄女房に教えられた通りに言づけ、その場をあとにする。これにてミッションコンプリートだ。
 さて、ここからの逆の道順が正確にたどれるかどうか……。気を引き締めて、蔵人所のある校書殿きょうしょでんと呼ばれる殿舎を出ようとした時のことだった。
「もう帰るの? せっかくまたお会いできたのだから少し、お話でもどう?」
「さ、定頼、さま!」
 ――出たーっ!!
 そうか、ここは定頼の職場だった、と気づくも時すでに遅し。今度は逃げられないように手と腰をがっちり捕まえられ、ホールドされてしまった。
「たしか、宮さまは明日から方違えでらしたか。でもあそこは女房の数も多いし、お支度ももう終わる頃合いなんじゃない?」
「いや、でも……」
「いいからいいから。お茶でもする? それとも双六すごろくでも?」
 なんというしつこさ。クラスの女子たちが、ナンパ野郎の執拗な誘いに辟易して文句を垂れているのを和雲も小耳に挟んだことがあるが、気の乗らないアプローチを拒むのがこれほどに面倒くさいものだとは思いもよらなかった。
「……いえ、けっこうです。とにかく、わたしはもう舎殿に戻りますので、これで」
「そぉお? 残念だなぁ。でもさぁ……」
 抱きとめられていた形からどうにかこうにか抜け出して、和雲が渡殿に踏み出した途端。定頼が再び、和雲の衣袖をくいと引いた。
「宮さまのやしきはそっちじゃないよ」
「え…………」

 ◇

 定頼はなかば押しつける勢いで道案内をかって出て、和雲に先だって歩き始めた。
 その道々にも彼は、「髪が細くてきれいだね」だの、「瞳の色が夜明け前の空のようだ」だの。こちらの反応などお構いなしに、歯の浮くような台詞を実に滑らかに延々と回し続けていた。
 ――なんというか、とにかく軽い。軽やか、ではなく軽い。
 定頼は現在高二の和雲と同年代くらいに見える。だが人懐こさが全面ににじみ出ているせいでいっそ幼ささえ感じさせ、年下かと錯覚してしまうほどだ。
 ――いや、現状の見た目的には俺のほうが全然年下なわけだけども……。
 和雲の態度がのれんに腕押しであろうとお構いなしに彼は話し続けている。おかげで道中とくに息詰まりは感じなかった。
 それでも見慣れた舎が見えてきて、和雲はようやく心底からほっと息を吐き出した。
 最後の渡殿を渡りきって舎内に入るやいなや、隣に張りついていた定頼からそそくさと距離を取って、和雲はぺこりと頭を下げた。
「あ、あの、案内していただき、ありがとうございました」
「うん? ああ、ついちゃいったね。残念。もう少し、君とこうしていたかったんだけどな」
「あ、あはは……」
 返事に困って苦笑いを浮かべていると、「ああそうだ」と、定頼が再び距離を詰めてきた。
「最後に、お名前だけでもいただけませんか? こちらでは、君はどのように呼ばれているの?」
 言いながら、ごく当然のことのようにこめかみの髪を一筋さらってするりと撫でる。ぎゃっと声が出そうになるのを抑え、和雲は逃れるように反対側へ首を傾けた。
「あの、ええと……和雲、と」
「わくちゃん? どんな字を書くの?」
「……和歌の和に雲」
「へえ、とても雅だ。いい召し名をもらったね」
「ああ……はい」
 くすっともう一度、目を細めて笑みをこぼした定頼は、流れるような動きで和雲の耳元にすいと顔を近づけた。
「――もう少し大きくなったら、内緒で君の真名まなを教えてね」
 呆気に取られ、何度も目を瞬いている和雲にウィンクを一つ投げて寄越すと、定頼はくるりと踵を返した。
 かろやかな背中を見送り、和雲は大きく一つ息をつく。それから簾を上げてなかに入ろうとした、その矢先。
「『ながめつつ 事ありがほに 暮らしても
 かならず夢に みえばこそあらめ』――」
 和雲がいるところから二つほど向こうの局から、御簾越しに和歌を投げかけた者があった。弾かれたように、男の黒い冠から垂れたえいが揺れて、すばやく向きを変えてこちらへ戻ってくる。
「――先日いただいたお文へのお返事ですわ」
 御簾の奥からまた声がして、定頼はその前に屈み込んでにこりと笑う。
「相変わらず、君は和歌上手だね」
「それはどうも。定頼さまのお文には、うつつにも夢にも逢えるのは夜だから、暮れゆくばかり嬉しきはなし、とございました。あれは素敵なお古歌うたですわよね。でもたとえ何かありそうな顔で夕暮れまで過ごしてみても、現であれ夢であれ、必ずお逢いできるとは限らないのはむなしいものです」
「そんなことはないさ。待っている間の物思いも、恋の醍醐味というものだろう? 離れていても互いに夜に思い合うなんて、胸が熱くなることじゃないか」
「心よりも言葉。夢よりも現。たとえ胸の内が熱く燃えていようとも、不実な殿方は陽炎のようなもの。陽の沈んだ夜にはたちまち消えてしまいますわ」
「なるほど、恋の炎が闇夜にかき消されてしまっては大変だね。じゃあ今宵、君のねやにはかがり火を焚いておいてくれるかな。僕の炎は、きっと君の火を探り当てるだろうから」
 簾の下から手を差し入れて、そこに控えているのであろう相手の衣の裾を、定頼はそっと握る。
「ねぇ、おとどの?」
 あかの他人の恋の駆け引き現場ほど居心地が悪いものもない。二人のやり取りを聞きつつ、物音をたてないように慎重に移動しようとしていた和雲は、その言葉にはた、と動きを止めた。
 乙どの、と定頼は甘く呼びかけた。
 それはつまり、この舎で新入りとして和雲らを引き入れてくれた泣きぼくろが艶やかな少女――乙侍従のことに他ならないだろう。
 この藤原定頼という男。
 筒井筒の賢子に花枝付きの恋文を送っていたかと思えば、先ほど初対面の和雲の肩を抱いてしれっと口説いてきた。そしていま現在、「今晩どう?」などと乙侍従に甘い言葉を投げかけている。
 確かに平安時代は一夫多妻が主流で、イケメン貴公子たちは数々のアバンチュールをたしなむのが常だというが……なんとも浮草のようにふらふらと漂う男心。現代人の和雲は唖然とするばかりだ。
「……『逢うことの なきよりかねて つらければ
 さてあらましに 濡るる袖かな』
 ――まだ逢瀬もそれほどに重ねていないというのに、もはや辛い心地がいたします。この上あなたとの関係が深くなってしまえば私はどうなるのかしら……それを考えると、私の袖は涙に濡れてしまいますのよ」
「へぇ、これまた味わいがある一首だなぁ。ほんとうに和歌上手で感服するよ。とても僕には真似できそうもない」
「あらそんなご謙遜をしてはぐらかされますの? あなたのお父上さまは歌才にも秀でた方でいらっしゃいますし、そのお血筋を受け継ぐあなたのことも、手放しで絶賛されているのは聞き及んでおりましてよ」
「……そりゃ親バカの買いかぶりってやつだよ」
「そうかしら? いずれにせよ、殿方たるもの、もう少しご自分を信じてみられてもよろしいのではなくて? 我が父などは、己を信じる心が己を助ける、と日頃から我が家の兄上たちに説いておりますわよ」
「君のお父上は怪異も恐れぬ武門の名将だ。実力は確かだし心根も強い。……やっぱり、僕とは違う種の人間だよ」
 言いながら、定頼はすくと立ち上がった。
「さて、思わぬ長居をしてしまった。ぼちぼち職務に戻らないと、どこで油を売っていたとまた怒られてしまう。名残惜しいけれども、もう帰るとするよ」
 するり、衣擦れの音がして、乙侍従が簾の端から顔をのぞかせた。
「……今宵のかがり火は、ほんとうに必要でしょうか」
 しばし、男女二人の視線が絡み合う。じっと射抜くように男を見上げる双眸に、定頼はふっと、小さく笑んだ。
「それは、貴女のお心のままに」
 そうしてそのままくるりと背を向けて、今度こそ定頼は舎殿を後にしたのだった。

「……和雲」
「あ」
 唐突に名を呼ばれ、和雲ははっと振り返った。渡殿に消えた定頼を見送った乙侍従が、いつのまにか和雲のほうを見つめていたのである。
「見てたんでしょ?」
 薄い笑みを浮かべたまま、乙侍従はさらりと切り出す。とくに気分を害したようには見えなかったが、和雲はわたわたと両手を振った。
「あ、い、いえ……あの、蔵人所? だっけ。そこにお遣いに行った帰り道を定頼さまに案内してもらって、それでたまたま、ここに居合わせてて……」
「いいのよ。みんな知ってることだし。――彼が気の多い方だってこともね」
「乙侍従さん……」
「光る君よろしく、貴公子の例に漏れず通う所の多い方。和雲ちゃんも、蔵人所からご一緒したのならお声がけされてたんじゃなくて? 彼があなたのような可愛らしい方を相手に黙っているはずはないわ」
「あー、ええと……」
「でしょ? ほんとうにお手がお早いこと。賢子どのも大変だわ」
 思わぬタイミングで賢子の名が出てきて、和雲は言葉に窮してはふ、と息をのんだ。 
「……幼馴染みだって、聞きました」
「そうね。あのお二方は親ごさまがたも親交がおありだものね」
 古いお付き合いなのよね、と遠くを見つめるような瞳で、乙侍従は微笑んだ。
「その分、彼女は気苦労も多くされたんじゃないかしらね。――さ、そろそろ私たちもお仕事に戻りましょうか。あと少しで、お荷物整理にも片が付くはずよ」

 ◇

「ええっ、定頼にナンパされたっ!?」
「し、しぃーっ!」
 夜。あてがわれた局のねどこの中で、和雲はお遣いでの出来事を祈子に報告した。目を見開いて驚嘆した彼女を、人差し指をたてて制する。声のトーンを落としつつも、祈子は興奮ぎみに和雲の手を握った。
「すっごいじゃない、和雲ちゃんっ。あの人は平安中期ではなかなかのモテ男なんだよっ」
「ああ、うん。母性本能くすぐるタイプとかいうやつ、なのかな」
 あいにく、れっきとした男子高校生の和雲にはそういった本能の持ち合わせがないので、彼の魅力が微塵もわからないのだが。
「で、どうしたの?」
「ど、どうもしてないよっ。さっさとバイバイして戻ろうとしたら、今度は乙侍従とやり取りが始まって……」
「あああ~そっかぁ。定頼は相模ともただならぬ関係を続けてたんだったわ」
「そんなことまで後世に伝わってるの? な、なんてやつだっ」
「だから彼は有名人なんだって。そういう意味でもね。でも、なんていうか憎めないタイプなのよね、彼。母性本能くすぐり系って、つまりそういうことでしょ?」
「あー、うん。なるほど、そうかも……」
 執拗な口説き文句はわずらわしいことは確かだが、定頼はどこか、構ってほしがる子犬のような瞳をしていた。それをにぱっと細めて無邪気に笑う顔を見ると、本来は男の和雲でさえ妙にむず痒くなってそわそわしてしまう。そういう感じを、母性本能がくすぐられる、と、女なら感じるのかもしれない。
 生真面目な顔で考え込んでいると、ふいに祈子が、うふふ、と忍び笑いを漏らした。
「……なに?」
「ううん。なーんか私たち、平安時代の女の子っぽくない? 夜の局で恋バナなんてっ」
「うん? うーん、まぁそりゃあ……」
 平安時代の女の子っぽい、と祈子は言うが、現状の外見だけで言うならまさに平安時代の女子である。そんな当然のことの何がそんなに楽しいのかさっぱりわからないが、祈子は幸せそうにくすくすと肩を震わせていた。
「――よしっ。さあじゃあ、寝よっか」
「へあっ?」
 ひとしきり笑って満足したのか、さっと表着を脱ぎさった祈子に、今度は和雲が声を上げる番だった。
「女房はみんな二、三人の相部屋なんだって。よかったよねぇ、ちょうど二人部屋にしてもらえて。和雲ちゃんと気がねなく女子トークしながら寝れる~」
「え、ええっ! う、うん……っ」
 ――冷静に考えてみればそれは、つまり、祈子先生と二人っきりでお泊まりするということかっ!!
 小袿こうちぎ内袴うちばかまなど、重ねて身につけていたものをすべて脱ぎさり、祈子の今の状態は真っ白な小袖姿。薄物の布地は灯りに透けてしまうようなまばゆさで、身体のラインもくっきりと視認できてしまう。
 いわば下着姿のようなものなのだとあらためて思い至り、和雲は目のやり場に困って慌てて下を向いた。
 今は自分も同じような姿形なのは理解していても、心は健全なる十七歳の男子。片想いの相手、しかも兄の婚約者でもある彼女と、こんな狭い空間で二人っきりだなどと、なんてハレンチで背徳的でエロス全開な状況!
 考えれば考えるほど、ばくばくと動悸が激しくなってくる。たどたどしい動きで衣裳を脱ぎ、寝支度を始めた手にはじんわりと汗がにじんでいた。
 置き畳の上で寝床を整えて早々と横になった祈子は、本日仕入れた平安事情をひたすらに熱っぽく話し続けていた。
 だが和雲はとてもそれどころではない。あれやこれやと語られる情報も右から左である。
 やがて、話し疲れた祈子がすやすやと眠りについても、目が冴えてしまってなかなか寝つくことができなかった。

 しらしらと更けゆく静寂しじまに、祈子の寝顔をそっと見つめる。こちらで共に行動している彼女は、十ばかり年齢がさかのぼっていることを差し引いても非常にいきいきとしている。古典の授業中よりももっと、頬を紅潮させ瞳を輝かせて心からはしゃいでいる姿はとても……愛らしい。
 和雲は初めて出会った頃の祈子の姿を思い出した。あの頃はまだ大学生で、彼氏などもいなくて、とにかく百人一首が大好きで。
 祈子は和雲に、いろんなことを教えてくれた。古典の話は呆れるほどたくさん。それ以外にも、中学生の和雲の胸に響く、たくさんの言葉たち。まぶしい笑顔に、しめつけられるような思いも。
 くるくると働き、ほがらかに話し、いまの祈子はまるであの頃に戻ったようだ。和雲の心など知る由もなく、すやすやと眠る祈子の顔をもう一度のぞきこんだ。
 ――有無を言わせず押しつけられる形で始まった謎の旅ではあるが、こんな状況に恵まれることもあるのなら、まあ悪い話ばかりでもないのかもしれない。
 そんなことをぼんやりと考え、沸き上がってくる甘やかな切なさを、和雲はきゅっと噛み締めた。そうして自身の鼓動の音を数えながら、長い長い夜を過ごしていた。

 ◇

 御所の夜明けには開諸門鼓かいしょもんこと呼ばれる鼓が打ち鳴らされるのが慣例である。
 これは大内裏の門が開く合図で、陰陽道や天文学とともに暦や時なども司る陰陽寮おんようりょうの管轄であった。人々はその音ともに起床し、祈りや占いなどの朝の習わしごとを始めるのだ。
 それから身繕いをし、着物を整える。軽食として粥をすすり、昨日の出来事を日記につけたりなどの朝の所用を順に済ませていく。
 数刻後、もう一度、太鼓の音が響き渡り、それが仕え人たちの出仕の合図となるのである。
 とうとう一睡もできなかった和雲は太鼓の音を聞き、あくびを噛み殺しながら身を起こす。深刻な睡眠不足により、ぼんやりした心地のまま、目を覚ました祈子とともに身支度を始めることになった。
 祈子の知識をもってしても、慣れない衣裳の着付けはさすがに一苦労で。二人分の衣装を整え終えるまでには相当の時間がかかった。
 おかげで二度目の太鼓が届くぎりぎりの頃までばたばたと準備に追われることに。とりあえず不備のない程度に体裁を整えると、あたふたと連れ立って一の宮の局へ出向いていった。
 女房たちの朝は早く、二人が到着した時にはもうすでに多数の女たちが姫君のまわりで忙しなく働いている。昼には出立する予定の今朝は、常時よりも早くから動き出しているらしかった。
 和雲はふと、その女たちの群れのなかに乙侍従の姿がないことに気がついた。
 昨夕、定頼との夜の逢瀬についての駆け引きを目撃していたため、「これはもしやそういうことなのだろうか……」と、ついつい余計な勘繰りをしそうになる。いやこれは下世話な考えだな、と思い直して、和雲はぬんぬんっと頭を振った。
 だが、朝食を終え、ひるが近づき、一の宮一行の出発の刻限が近づいてきても、乙侍従はなかなか姿をあらわさない。さすがに気になってきた和雲は、祈子にこっそり耳打ちをした。
「乙侍従、いないね」
「え? ああ、そういえば、今朝から見てないね。どうしたのかな」
「やっぱり昨日の夜、なにかあったのかな」
「定頼と逢瀬? うーん、だとしても遅すぎるような……」
 祈子が首をひねってつぶやいたとき、聞きなれたしとやかな声が御簾の向こう側から聞こえてきた。
「宮さま。参上が遅くなりまして、申し訳ありませんでした」
 簾の陰からそちらの方をのぞいてみると、乙侍従が姫宮の前に平伏して朝の挨拶をしている。「あなたが遅れるなんて珍しいわね」と、一の宮に朗らかに笑われ、乙侍従はもう一度、丁寧に主に詫びの言葉を繰り返していた。
 その後すぐに、「失礼いたします」とこちらへ退出してきた彼女と、簾に張りついたままだった和雲と祈子は鉢合わせの格好になる。「「あ」」と二人して間の抜けた声を落とし、乙侍従から冷ややかな視線を頂戴する羽目になってしまった。
「……こちらで何をなさっているのかしら?」
「乙侍従、さ、ま」
「ずいぶんと聞き耳がお得意なようね、和雲」
「ご、ごめんなさっ……」
「冗談よ」
 くすり、と乙侍従は苦笑をこぼす。その顔にかすかな疲労の色を感じ取って、和雲はそれ以上の言葉をかけられなくなった。 
「心配、してくれてたんでしょう?」
「あ……ええと、もうすぐ出発だって聞いたので、それで……」
「ほんとうにね。こんな忙しい日に、まったく迷惑な方だわ」
 ふ、と乙侍従がため息をつく。
「結局、かがり火は無駄になってしまったの」
「え……」
 ぽろりと吐き捨てられた言葉に、和雲も、そしてかたわらの祈子も息を呑んだ。
「『頼むるを 頼むるべきには あらねども』――待っていて、なんて彼のお言葉を信じるべきではないと、わかっていたことですのにね。待つとはなしに、心は待ってしまうものなのよねぇ」
「乙侍従さん……」
「だからね」
 くいとあごを上げて、乙侍従が気丈に微笑んでみせた。
「今朝がた、お文を書いて届けさせましたの。やはり一言くらいはもの申してやらないと、気が済みませんから」
 顔を上向けた彼女の睫毛が黒く濡れて光っているのを、和雲ははっきりと見た。そうして、「こう言ってやったのよ」と、乙侍従が口を開く。

『恨みわび 干さぬ袖だに あるものを
 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ……』
(つれない人を恨んで嘆き、涙に濡れ続けて袖が朽ち果てていくのは口惜しいこと。そんな恋のせいで、私の名が朽ちるのはもっと口惜しいことだわ――)

 詠み上げられた和歌に、あ、と祈子が小さく悲鳴を上げた。
「……いつか、解くことがあるかしら。私とあの方と二人で。玉結びのようになってしまった、この心のもつれを――――」
 そうつぶやいて目を伏せた乙侍従の面影が、淡く乳白色のもやの中に瞬く間に失われていく。
 辺りは一面の白に視界を奪われ、そうしてまたすぐに、景色はクリアになっていき…………。
 あれ、と和雲は何度か、瞬いた。
 そこはいまだ、寝殿造の邸の中。前回と同じように、簾の手前で祈子とともに局に押し込められている。
「ま……っ」
 ……たこれっ? と、思わず叫び出しそうになった和雲を、「しっ!」と祈子が制した。目線だけを祈子のほうに流すと、彼女は至極真剣な表情で簾の向こう側をじっと見据えている。密められた声で、そっと和雲に言った。
「これ……歌合うたあわせだわ。それも内裏の」
「うたあわせ……?」
 小さく問い直すと、祈子は目線を逸らすことなくうなずいた。
 何が何やらわからぬままに、和雲が彼女にならって簾の外をのぞいてみると、そこには老若男女、たくさんの人々が置き畳を等間隔にずらりと並べて座していた。
 中央正面には一際華やかな几帳に囲われた御座ぎょざがあり、半ばほどまで御簾の降りたその奥に、白と緋色の束帯姿の足元が見える。恐らくは、それが主賓席なのであろうと思われた。
 内裏の歌合ということはつまり、皇家の誰かしらが主催する歌会ということだろう。今までに見たどの邸よりも格段に立派な板張りの大広間と、そこに集う多数の人々の豪華な衣裳を見るに、祈子の予想は確かなように思われた。
「――五番右方うほう右近少将うこんのしょうしょう源経俊みなもとのつねとしどの」
 会を取り仕切っているらしき従者の指示が飛んで、読み手の者が朗々とした声音で一首を読み上げ始める。
「『下燃ゆる なげきをだにも 知らせばや
 焼火たくひの神の しるしばかりに』」
 ――人知れぬ嘆きをあなたに知らせたい。焼火の神に祈る効験しるしとして。
 ほう、と観衆の人々の間から賛辞の波が拡がった。従者は淡々と、次の手はずへと移っていく。
「五番左方さほう祐子内親王家ゆうしないしんのうけ・相模どの」
 相模? と小首をかしげた和雲の腕を、祈子が振り返りもせずに力を込めてつかんだ。

『――恨みわび 干さぬ袖だに あるものを
 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ』
(恨み疲れ、泣き暮れて、涙で乾くひまもないこの袖はもう朽ち果ててしまうことでしょう。でもそれよりも何よりも、こんな恋のせいで朽ち果てていく私の名誉こそが、一番、口惜しいのです――)

 どよ、と場内にうねるようなざわめきが起こった。涙に暮れる女の姿がまざまざと目に浮かぶような一首に、人々の心にも言いようのない不穏な色がにじんでいくようだった。
 さわさわとさえずり続ける人々の群れの先、泣きぼくろの目尻にも口もとにも深く年波を刻んだ乙侍従――相模の姿を和雲は見つけた。
 和雲がこの和歌の詠唱を聞いたのは、確かにこれで二度目である。だが一度目の若い頃よりも、歳月も情念も長く深く重ねてきたのであろう、いまの彼女の和歌には、なみならぬ迫力が備わっていた。そこにはまた違う種の心がひしと込められているのを、ありありと感じ取ることができる。
「勝者、左方!」
 大きく判定の声が響き渡り、おおっと歓声が巻き起こる。それを皮切りに、近くにいる人々の囁き交わす言葉が次々と和雲の耳にも飛び込んできた。
「さすがだわ……経験値の違いとでもいうのかしら」
「恨み節よね。相模どのの迫力には、気圧されるばかりですわね」
しるしだけの炎では、情念の炎にはとても勝てるはずもありますまい――――」
 途切れることのない和歌への賞賛の渦に巻かれながら、視界がまたもや停止する。見る間にもやに包み込まれ、ぐずりと溶け出していく景色の中に、老いた相貌に確かな強さを秘めた笑みを浮かべている相模の姿――それが、和雲が捉えた最後の光景だった。



#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

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