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突然かもしれませんが、ふと思いついたので、こんなテーマを書いてみたいと考えました。こんなことを思ったのは、

「普通」という言葉

どうしても、私の癖なのか、そういう環境の中で育っていったからなのか、言葉の持つ意味、定義があいまいになっていそうなものが気になるのです。

誰にとっての「普通」なんでしょう。
「普通」というところとそうではないところの境界線はどこなんでしょう。

ということで、まずは「定義」を再確認から。

「九年の普通教育」
普通教育とは、通例、全国民に共通の、一般的・基礎的な、職業的・専門的でない教育を指すとされ、義務教育と密接な関連を有する概念である。

九年の具体的な内訳については、教育基本法は特に規定せず、学校教育法に委ねている。

第4条 (義務教育):文部科学省 (mext.go.jp)

(教育の目的)第一条 
教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

教育基本法:文部科学省 (mext.go.jp)

(教育の目標)第二条 
教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

教育基本法:文部科学省 (mext.go.jp)

改めて、調べなおすと…長い!(笑)

そして、日本語はやはり「相手に判断を委ねる言語」だなと改めて感じました。勿論、これはメリット・デメリット双方あります。

相手に判断を委ねるということは、
「想像・解釈は人によって異なる、その違いを楽しむ」ということも可能です。これは以前、職場の人との話題で出た”解釈”についての日本語と英語の違いについて。

古池や 蛙飛びこむ 水の音

松尾 芭蕉

この有名な俳句について、英訳をする場合、
100人いたら100人、違う解釈や翻訳をする可能性がある
という話をしました。(たしかそんな本もあった気がします。)

・池のサイズ感とか、深さはどのくらいなんだろう?
・カエルのサイズ感や、そもそも種類は?さらに何匹?
・水の音は、どのくらいのボリュームなのか…
更にこの句が作られた背景なども含めると、読者によって、この句の解釈は確かに無数に作られることでしょう。

いわゆる日本文化の「幽玄」という言葉が当てはまります。
奥ゆかしさ、趣深さ、儚さ、優美さ、優雅さ…などでしょうね。
こうした文化・性質は、日本古来からあるものとして、是非大事にしていきたいものです。


今回の場合は、こうした「幽玄」の考えとは異なります。

「法」や「決まり事」になっているものは、出来る限り、その解釈は個人によって異なるものにはしたくないものです。
しかし、法解釈で争いがおきたり、法の文言を変えることで議論が紛糾することなどが、続いていることを鑑みると、日本語だけに限ったことではないのかもしれませんが、「解釈を相手に委ねる」ということのデメリットが、そこにあるのでしょう。

ただこれはデメリットとしてではなく、機会として捉えると良いのです。

つまり「言葉の定義を、常に考え抜き、そしてすり合わせをする」…
多様性の理解(ダイバーシティ&インクルージョン)」が必要と叫ばれておりますが、その学ぶ教材として、こんなにうってつけのものはないのでは?と思うのです。

個人的にですが、
『ダイバーシティ&インクルージョン』を、”国際化”と捉えている人もいるようです(私の周りだけかもしれませんが、結構多いですよ)が、私はこれも英語表記するからわかりづらくなるのだと思ってます。
簡単に言うと「多様性の理解」
もっと簡単に言うと「自分と違うことを知り、受け入れる力」くらいでまずは良いのではないかと思っています。

”曖昧さ”は考えるきっかけ。
”抽象”を”具体”にするには、思考と対話が必要。

時代が変化している今だからこそ、もう一度定義を見直すべきでは?なのです。


話を戻して、”普通教育”を考えましょう。

改めて、”抽象的”かつ”曖昧さ”を多分に残した内容だと感じませんか?

普通教育とは、通例、全国民に共通の、一般的・基礎的な、職業的・専門的でない教育を指すとされ、義務教育と密接な関連を有する概念である。

まずポイントとしては、
①全国民に共通の、一般的・基礎的な教育
②職業的・専門的でない教育

と読み取れます。

さてここからが我々が考えなければならないことです。
一般的な教育とは?基礎的な教育とは?
職業的な教育とは?専門的な教育とは?

これらの言葉の定義の”解像度”をあげていかなければなりませんね。

まずはすべてに共通している「教育」を考えるために、なぜ教育を行うのかという「目的」を再確認。

(教育の目的)第一条
教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

教育基本法:文部科学省 (mext.go.jp)

ここもキーワードが結構ありますね。
①人格の完成を目指す。
②平和で民主的な国家及び社会の形成者の育成を期する

②のような国家及び社会の形成者に必要なのは、
・資質
・心身が共に健康であること

ということです。ここにも定義を議論してみたい内容があります。


「人格の完成」とは、どういった内容なのか?

個人の価値と尊厳との認識に基づき、人間の具えるあらゆる能力を、できる限り、しかも調和的に発展せしめること

「教育基本法制定の要旨」昭和22年文部省訓令

真、善、美の価値に関する科学的能力、道徳的能力、芸術的能力などの発展完成。人間の諸特性、諸能力をただ自然のままに伸ばすことではなく、普遍的な規準によって、そのあるべき姿にまでもちきたすことでなければならない

「教育基本法の解説」

「平和で民主的な国家・社会」における「民主的」とは?

〘形動〙 民主主義の精神や方法にかなっているさま。

民主的(みんしゅてき)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)

「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質」とは?

ここについては、私の解釈として「教育の目標」にその資質に関する記述があるものと判断しております。

(教育の目標)第二条 
教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

教育基本法:文部科学省 (mext.go.jp)

たぶんこの内容だけで、1年間の授業や、グループワークを作成できる気がします。

むしろもし教育系に興味を持っている学生さんがいれば、このテーマだけでPBLのように、最後に発表まで持っていける研究材料ではないでしょうか?

小学生や中学生には、法律の文言の解釈から始めて、最終的にこれは何を目指しているでしょう?とかも出来そうですね。

それだけ「言葉の定義」を考えるということは大事ですし、1つの物事について、改めて立ち止まって考え、他の人の意見を聞きブラッシュアップさせる「対話」は本当に重要なのです。

あくまでもここで述べている内容は、批判でもなく、改善案の提出でもなく、まず「考えることの大事さ」を述べているということです。

ぜひ下記リンクをご覧ください。
https://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/houan/siryo/07051111/001.pdf

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