”普通教育”ってなんだろう。
突然かもしれませんが、ふと思いついたので、こんなテーマを書いてみたいと考えました。こんなことを思ったのは、
「普通」という言葉
どうしても、私の癖なのか、そういう環境の中で育っていったからなのか、言葉の持つ意味、定義があいまいになっていそうなものが気になるのです。
誰にとっての「普通」なんでしょう。
「普通」というところとそうではないところの境界線はどこなんでしょう。
ということで、まずは「定義」を再確認から。
改めて、調べなおすと…長い!(笑)
そして、日本語はやはり「相手に判断を委ねる言語」だなと改めて感じました。勿論、これはメリット・デメリット双方あります。
相手に判断を委ねるということは、
「想像・解釈は人によって異なる、その違いを楽しむ」ということも可能です。これは以前、職場の人との話題で出た”解釈”についての日本語と英語の違いについて。
この有名な俳句について、英訳をする場合、
100人いたら100人、違う解釈や翻訳をする可能性がある
という話をしました。(たしかそんな本もあった気がします。)
・池のサイズ感とか、深さはどのくらいなんだろう?
・カエルのサイズ感や、そもそも種類は?さらに何匹?
・水の音は、どのくらいのボリュームなのか…
更にこの句が作られた背景なども含めると、読者によって、この句の解釈は確かに無数に作られることでしょう。
いわゆる日本文化の「幽玄」という言葉が当てはまります。
奥ゆかしさ、趣深さ、儚さ、優美さ、優雅さ…などでしょうね。
こうした文化・性質は、日本古来からあるものとして、是非大事にしていきたいものです。
今回の場合は、こうした「幽玄」の考えとは異なります。
「法」や「決まり事」になっているものは、出来る限り、その解釈は個人によって異なるものにはしたくないものです。
しかし、法解釈で争いがおきたり、法の文言を変えることで議論が紛糾することなどが、続いていることを鑑みると、日本語だけに限ったことではないのかもしれませんが、「解釈を相手に委ねる」ということのデメリットが、そこにあるのでしょう。
ただこれはデメリットとしてではなく、機会として捉えると良いのです。
つまり「言葉の定義を、常に考え抜き、そしてすり合わせをする」…
「多様性の理解(ダイバーシティ&インクルージョン)」が必要と叫ばれておりますが、その学ぶ教材として、こんなにうってつけのものはないのでは?と思うのです。
”曖昧さ”は考えるきっかけ。
”抽象”を”具体”にするには、思考と対話が必要。
時代が変化している今だからこそ、もう一度定義を見直すべきでは?なのです。
話を戻して、”普通教育”を考えましょう。
改めて、”抽象的”かつ”曖昧さ”を多分に残した内容だと感じませんか?
まずポイントとしては、
①全国民に共通の、一般的・基礎的な教育
②職業的・専門的でない教育
と読み取れます。
さてここからが我々が考えなければならないことです。
一般的な教育とは?基礎的な教育とは?
職業的な教育とは?専門的な教育とは?
これらの言葉の定義の”解像度”をあげていかなければなりませんね。
まずはすべてに共通している「教育」を考えるために、なぜ教育を行うのかという「目的」を再確認。
ここもキーワードが結構ありますね。
①人格の完成を目指す。
②平和で民主的な国家及び社会の形成者の育成を期する
②のような国家及び社会の形成者に必要なのは、
・資質
・心身が共に健康であること
ということです。ここにも定義を議論してみたい内容があります。
「人格の完成」とは、どういった内容なのか?
「平和で民主的な国家・社会」における「民主的」とは?
「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質」とは?
ここについては、私の解釈として「教育の目標」にその資質に関する記述があるものと判断しております。
たぶんこの内容だけで、1年間の授業や、グループワークを作成できる気がします。
むしろもし教育系に興味を持っている学生さんがいれば、このテーマだけでPBLのように、最後に発表まで持っていける研究材料ではないでしょうか?
小学生や中学生には、法律の文言の解釈から始めて、最終的にこれは何を目指しているでしょう?とかも出来そうですね。
それだけ「言葉の定義」を考えるということは大事ですし、1つの物事について、改めて立ち止まって考え、他の人の意見を聞きブラッシュアップさせる「対話」は本当に重要なのです。
あくまでもここで述べている内容は、批判でもなく、改善案の提出でもなく、まず「考えることの大事さ」を述べているということです。
ぜひ下記リンクをご覧ください。
https://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/houan/siryo/07051111/001.pdf
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