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続:不登校になること②-1-保護者の目線-

noteを書き始めて、間もないころに書いたこの文章。
改めて読みなおすと、もう一度このテーマで書かないといけないなという気持ちに駆られました。その第2番目。

どの目線で物語を紡ぐかによって、受け取り方は本当に変わります。
ですので、目線を絞って話を書きます。
前回は出来る限り子どもの目線、気持ちを中心に描きましたので、

今回は保護者の目線で書いてみたいと思います。


「まさか、自分の子どもがこういう状況になるなんて…」
「自分の家族と、”不登校”という言葉は遠い存在だと思っていました」

「今はまだ軽い状態だと思うので、うちの子は大丈夫です」
「朝起きれないとかは、夜遊んでいるからとかの怠けなんですよ」

本当に様々な意見・見解をもった保護者の方がご相談にいらっしゃいました。

・現状を受け入れられない、承服できない方
・突然の交通事故に遭ったような雰囲気をまとう方
・どうにもできなかったという自戒の念にとらわれてしまっている方
・より子どもに対して厳しく接する方
・全てを許容しすぎて本質を見失ってしまっている方

これも前回の「続:不登校になること①-子どもの目線-」でお話したように

不登校 = 悪いこと

というマインドにより、大きく保護者ご自身も、そして家庭生活のバランスも崩れていくことになっていくものなのだと感じます。

保護者の方も、大きなダメージを負っていらっしゃるかたも多くおります。
私はこういうご相談を受ける場合に、そうしたダメージを背負われている方に一番、最初に声をかけることとして

「まず、ご自身の体調やお気持ちの面はいかがですか?」
とたずねています。
※ただしこれはお子さんが同席していない時に限ります(同時に来校された場合は、話の流れでこれを途中に挟むか、もしくはいったんお子さんに離席してもらう形にしていました)

ここでポイントなのは、
保護者の方自身も、”何かしらの部分”で、困りごと・つらさを抱えている
という事実です。そして傾向として
その”何かしらの部分”を言語化できていない
ことが非常に多いです。

つまり、今の自分の現在地を、冷静に、俯瞰してみることが難しく、
近くにいる他者との比較論や、その保護者の方が考える”一般論”と比較して、判断している場合が非常に多いのです。
…ただ、これは私は当然のことと思います。

だからこそ、改めて第三者が介入するタイミングでは、
そもそも、子どもの前段階で、保護者の方自身の「今」はどうなのか?を考える機会が必要なのではないでしょうか。

ここで、もしこれを読んでくれているティーン世代の方がいてくれれば、
下記内容を伝えたいと思います。

それは、皆さんの周囲の大人、親も先生も
「完璧」ではありません。というより、完璧な大人というのは、私は存在しないのでは?と考えています。
どんな年代・どんな役割を持っていても、全てにおいて完璧な立ち振る舞い、完璧なアドバイスが出来る人はいないと思っています。
人は、一生成長し続けるもの。
例えば、先生と呼ばれる立場の人であっても、「先」に「生」まれただけであって、まだまだ成長や発展の途中です。
どうしても、正解を持っていたり、全てをわかってもらえる存在と誤認してしまいがちですが、共に一緒に寄り添い、そして一緒に成長していく存在なんだと思えると、少し立ち止まって考えることが出来るようになるかもしれませんね。


そうした中で、どのように保護者は子どもの状態を考えるのが良いのでしょうか。

私はまずお子さんの状態を考えるにあたって、1つ保護者の方に実践していただきたいことは、

自身のコア・ビリーフ、つまり「信念」や「価値観」にあたるものを、もう一度立ち止まって考えてみてほしいのです。

例えば、1つ事例を使いながら考えてみましょう。

自分でやると決めたことは、最後までやり抜くこと。

とある、保護者の方のコア・ビリーフにこうしたものがあるということでした。大前提として、この自身の信念や価値観に”間違い”があるということではないというのは大前提です。
大事なのは、
①このコア・ビリーフの精度はどの程度あるのか。
②そしてこのコア・ビリーフは自身のお子さんの今の状況に即しているものなのか?

を考えることなのです。


①コア・ビリーフの精度というのは、私は「日本語」の持つ”美しさ”・”奥ゆかしさ”がゆえの”曖昧さ”が起こす難しさだと感じています。

どういうことかというと、ここで一つ質問です。

自分でやると決めたことは、最後までやり抜くこと。

①「決めた」という意思決定のレベルは、どのくらいの強さですか?
②「決めた」タイミングは、そこに本当に「自分だけ」で決められたものであって、外的要因はないものでしたか?
③「最後まで」の「最後」とは、どの段階が最後までなんでしょうか?

これはあくまでも一例ですが、私が感じただけでも、実はここにも”曖昧さ”が含まれています。
①であれば、「決めた」は”意志”レベルのものなんでしょうか、それとも”抱負”レベルのものなのでしょうか、それとも必ずやり抜くという”使命”レベルなんでしょうか…?
②は、例えばその決めたことが、”周囲から誘われて”というきっかけでしょうか?何か参考になるものからの”影響を受けて”というきっかけでしょうか?それとも周囲の雰囲気を呼んで、”こうした方がいいという選択肢を選ぶ”というところをきっかけにしたものでしょうか?
③は期限です。いつまででしょうか?

つまり、定量的になっていないもの→定性的なものには、どうしてもそこにその人の感性や価値観、あるいは背景などが入ります。ただ、それは明確になっていない、もしくは常に表現し続けない限り
周囲に伝わらないもの」「自身が深く理解を出来ていないもの
なのです。

こうした”曖昧さ”を持っているものを、自身のお子さんに当てはめて、それと比較・判断した時に、ストレスを感じたり、違和感を感じたりする。
つまり、”自分(の考えや信念)と違う”にマイナスの感情を抱いてしまう傾向があるのです。

①このコア・ビリーフの精度はどの程度あるのか。

もう一度考えてみませんか?本当にそのコア・ビリーフは、言語化できていいますか?そして現在の状況に即したものになっていますか?

自分でやると決めたことは、最後までやり抜くこと。

これについて実際に保護者の方に精度の振り返りをしてもらいました。
「”学校に行きたい”・”勉強したい”なんて、子どもは言ってなかったかもしれないけど、当然そう思っているものと思ってたかも…。」
「自分から”〇〇部に入りたい”って言ってたけど、それも仲の良い友達に誘われてたのがきっかけだったかな…。あ!そういえばその子が部活止めたという話をしていたかも…」
「小さい頃に考えた”〇〇になりたい”って、どこのタイミングで違うって思ったかなぁ…。最後まで本当にやり抜くことが出来てたかな…」

一度、立ち止まって考えてみて下さい。しつこいようですが、皆さんが持っているそもそもの
信念や価値観に、間違いがあるということではありません。
ただ、状況や環境の変化、そしてその言葉の精度によって意味合いは変わります。自分への問いかけ・投げかけ、つまり”内省”をゆっくりしてみるのも一つでしょう。


②コア・ビリーフは自身のお子さんの今の状況に即しているものなのか?は、上述内容の進行過程で出てくる内容になります。

自身の信念・価値観を大事にしつつも、優先順位というものは個人の中でも出てくるものです。例えば、

●自分でやると決めたことは、最後までやり抜くこと。
●自分の子どもの幸せのために、力を注ぐこと。

もしこの信念・価値観を両方持っているのであれば、どちらが今は優先されるべきでしょうか?自身のコア・ビリーフの振り返りを行うと同時に、価値観の中での優先順位を考えるということが必要です。

自分でやると決めたことは、最後までやり抜くこと。

は大事にしてほしいけど、幸せにそして安全に生活を過ごしてほしい。だからこそ、最後までやり抜くことが負担となっているのであれば、今はまず「子どもの幸せのために、力を注ぐこと」が優先度が高いものとなります。そして、現在の状況を踏まえて、もう一つのコア・ビリーフの精度をあげるならば、

自分でやると決めたことは、遅くなっても、立ち止まってもいいから、心健やかな状態で、最後までやり抜けるように努力すること。

くらいに変えることは可能ではないでしょうか。

さて、ここまででお話した内容。実は、まだまだ序論です。
ただここまでした話を最後にまとめると、まず保護者の方に何をしてほしいかということは

「自己認知」と「他者理解」の実践

なのです。昨今言われている「非認知能力(メタ認知)」がありますが、今まさに、この能力を活かし、ご自身の事、そしてお子さんの事を理解・認知していく作業が必要になります。

まずはここから始めていきましょう。そして、次の段階については
こちらの内容をご覧ください。
※公開されれば、下記リンクからご覧出来るようになります。

引き続きよろしくお願いいたします!

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