やかましいバイクに物申すつもりが、同情してしまった。
今の家へ引っ越して3年ちょっと経つ。近隣には、コンビニやスーパー、ドラッグストアのほかに、市役所や総合病院もある。車を出せば10分くらいで育児用品店や大きな公園にも行けるから、1年前に子どもが生まれてからも、日々の暮らしで困ることはまずない。
そんな我が家だが、1点だけ悩みがある。ベランダから目と鼻の先に、交通量の多い幹線道路があることだ。
幹線道路と言っても、上り2車線、下り1車線と、そこまで広くない。しかし周囲は住宅街ばかりで、その道路を使わずに通り抜けるのも難しい立地だ。そのため、広くないわりに交通量が多い。平日は早い時間から、道幅いっぱいにトラックやダンプカーがひっきりなしに行き交う。
さらに信号がすぐそばにあるので、大型トラックが停車すると「プシューッ!」とエアブレーキの抜ける音も響く。これに結構驚かされる。
しかし、それらはまだいい。引っ越してすぐは多少ストレスになったけれど、毎日のこととなればさすがに慣れる。それに、うるさいのは基本的に平日の日中だけで、睡眠が妨げられることもない。
問題は、その道路をたまに通るやかましいバイクどもだ。
マフラーを改造したバイクが、けたたましい排気音をまき散らしながら走るのである。頻度はそう多くないが、夜遅い時間に来るのでタチが悪い。毎度、子どもが目を覚ますんじゃないかと冷や冷やする。いまどき珍しい、パラリラ鳴るホーンの音が聞こえたときは、さすがに笑ってしまった。
それらが、連休になると増える。春休みに入り顕著に増えたときは、彼らは虫か何かなのかもしれない、と夫婦で悪態をついて留飲を下げていた。悔しくも、我々にはそれくらいしか抵抗の術がないのである。
そんなわけで、物申したい内容はシンプルだ。バイクに乗るのは構わないけれど、人に迷惑をかけない努力は最低限してくれ。この際、うるさいのも受け入れよう。ただ、子どもが寝た後に走り回るのは勘弁してほしい。大げさでなく殺意が湧いてしまうので、走るにしても日中だけでお願いします。
なぜ(一部の)バイクはあんなにもうるさいのか
物申したい内容としては以上なのだが、ところで彼らはなぜあんなにも馬鹿でかい音を出して走り回るのだろうか。ただ「やめてくれ」と一方的に物申すのもつまらないので、自分なりに考察してみた。
マフラーがない方が理想の形?
まず、バイクの構造上の問題があるらしい。むしろマフラーがないのが理想の形で、彼らは本来の姿でバイクを楽しんでいるだけだという意見を目にした。マフラーをなくす(排気の抜けをよくする)と最大馬力が上がる。そのため、本来の目的はうるさくすることではないのだけれど、結果的にうるさくなってしまうというわけ。
なるほど。せっかくであれば正しい形で、本来の持ち味を思う存分楽しみたいというのは、理解しやすい。それがお金や時間を多く費やす趣味であれば、なおさらだろう。
しかしまあ、これは文字を尽くして反論するまでもなく、「決められた範囲内でやれ」としか言いようがない。刀や銃を例に出せばわかりやすいだろうか。どのような趣味であれ、規制されるということは相応の理由がある。その決まりを守れなければ、非難されるのは仕方ない。
――と、ここまで書いてみて思ったが、このタイプは筆者が感じる「うるさいバイク」に実はあんまり含まれていない。多少うるさかろうと、スピードを出して勢いよく走り抜けていくならそんなに気にならない。
私がとくにうるさいと感じるのは、信号を待っている間にひたすらエンジンを吹かしているような輩だ。
身を守りたい?
信号待ちのたびにブォンブォンとエンジンを吹かす人は、周囲を威嚇しているのだろう。
なぜそんなことをするのか。威嚇なんて、わざわざ敵を作るような行為だ。客観的には不思議でならない。自分のバイクの音に酔っているのだろうか。まあそういう面もあるかもしれない。しかし、それだけが理由とも思えない。
彼らには、そうしなければならない理由があるのではないだろうか。他者が不思議と感じる行動を取る人がいるとき、その裏にはたいてい切実な理由が隠れているものだ。では彼らにとって切実な理由とはなにか。ずばり、威嚇しなければ自分の身を守れないと思っているのではないだろうか。
彼らにとって社会は戦場で、先制攻撃をしかけて戦意を喪失させたほうが安全なのだ。それで敵に位置を知らせることになろうとも構わない。どうせそこら中に敵はいるのだ。隠れていたっていつか見つかる。それならこっちから仕掛けてやろう。そういう意思を感じてならない。
警戒心をむき出しにせざるを得ないほど、安全地帯を与えられずに生きてきたのではなかろうか。そんな風に考えると、同情の念を禁じ得ない。
関心を向けてもらいたい?
あるいはこうも考えられる。彼らは世界から見放されたように感じている。周囲は自分に興味がない。だから大きな音を立てなければ、気付いてすらもらえない。
交流分析という心理療法の理論に、『ストローク』という概念がある。
ストロークとは、「人間が生きていくうえで必要不可欠な心の栄養」のことだ。ひらたく言えば、人とのかかわりそのものであり、それが良いものであるか悪いものであるかにかかわらず、人は人とのかかわり(≒ストローク)を求めずにはいられない、と交流分析では考える。
彼らにとって、大きな音を出すことは、ストロークを求める行為なのではないだろうか。無視されるくらいなら、悪さをして怒られることを選ぶ。興味を持たれないよりも、敵意でもいいから関心を向けてもらいたい。そうだとすれば、なんて悲しい性分なのだろう。
結び
今回の考察が正しいかどうかはわからない。根拠も何もなく、考察というより妄想に近い。ただ、これが正しかろうと間違っていようと、妄想を通して彼らに同情してしまった今、以前ほどの敵意は抱けない。次からは、寛容な気持ちであのやかましい音に向き合える気がしている。
文章:市川円
編集:アカ ヨシロウ
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