タイプ6日本の「無限責任」と「無責任」について

日本人の国民性は、エニアグラムのタイプ6と言われています。

において、
国際日本文化研究センター教授の大塚英志氏が、堤清二氏を語っています。

私に理解できる部分だけ引用しながらタイプ6日本人について考えてみます。

堤清二の著書『消費社会批判』を読み直してみると、今後の社会の方向性や今抱えているリスクという点で、ほぼ堤清二が予言した通りの、悪い方になってしまったな、と感じました。

良き未来を構想する力は悪しき未来を正しく予見する力でもあるわけです。
企業や組織のトップが何をやってもいいのだという「無限責任」と、責任を取るべき時に責任を取らない「無責任」が共存していて、そこから脱却しない限り日本の組織はダメになるよ、という予見などが分かりやすい例でしょう。

「無限責任」と「無責任」。
むつかしいです。

やっつけ仕事で説明してみます(将来的には説明が変わる可能性があります)。

タイプ6は、安心・安全・安定を求めます。
タイプ6な日本人にとって、安心・安全・安定は何より重要です。
そんな中で、企業や組織のトップになれば、組織の中での安心・安全・安定が保証された状態になります。
そうすると、慢心します。

安心・安全・安定が何より目的の文化の中で、安心・安全・安定を得てしまうと、目的を見失います。

また、タイプ6には「内発的道徳観」がありません。
ですから、安心・安全・安定が満たされた状態になると、タイプ6は箍(たが)が外れた状態になります。

そうなると、「何をやってもいいのだ」という形になります。

これは何もトップに限った話では無くて、
例えば「商品やサービスに文句を言うクレーマー」がそういったものになります。
攻撃されないと分かっている安全な立場に立つと、「内発的道徳観」というブレーキが無いので、歯止めが効かなくなってしまうのです。
別にクレーマーがタイプ6とは思っていませんが、「内発的道徳観」を求めないタイプ6文化には、それを止める構造が無いのです。

また一方で、安心・安全・安定が好きなタイプ6は、「責任」を嫌います。
責任を取ることは大抵、安心・安全・安定が崩れる状況です。
ですから、タイプ6は、責任から逃れようとします。
責任を取る場合も、いかに安心・安全・安定が損なわれないかに 策をこらします。

ということで、

何をやってもいいのだという「無限責任」と、責任を取るべき時に責任を取らない「無責任」が共存

することになります。


戦後の日本人は、彼の言い方だと「内的洞察」かな、つまり反省していないと言うんです。歴史に対する反省がない、と。

タイプ6は、関係性で生きる性格タイプです。
ですから、タイプ6は周りを見て生きています。
基本的に通常のタイプ6は自分の内面に向き合いません。
ですから、「内発的道徳観」もありません。「みんなやっているから」で動いてしまう性格タイプです。皆の動きに合わせる性格タイプです。
そして、同様な理由から「内的洞察」を行なわない性格タイプです。


※『タイプ6とタイプ3、2つのタイプの共通点』基準が自分の外にある性格タイプの話


「歴史は昭和初頭を繰り返している」という趣旨のことを思想家の柄谷行人が言っていました。
僕も『更新期の文学』というの本の中で、ネット社会はおそらく近代を同じようにもう1回やり直すだろうと指摘していて、悪い意味でその通りになっています。
今は色々なことが停滞しているようにも感じます。ループして、停滞して、躊躇(ちゅうちょ)して。本当は変化しないといけないと分かっているのに、「何で曲がらないの?」というところで、曲がれずにいます。

日本人の性格タイプがタイプ6である限り、似たような行動は繰り返されるでしょう。

未来像が描けないからカタストロフを期待しているとしか思えないような、あるいは先送りできるものは全部先送りしておけ、というようにさえ感じます。

これは、その通りです。
タイプ6日本人は、自ら、安心・安全・安定の外に出る「判断」や「決断」を嫌うので、基本的な行動は「先送り」となります。
未来像を“自ら”描く行為も、安心・安全・安定の外に出る行為なので、そういうこともできません。

また、タイプ6は、安心・安全・安定が損なう予想も嫌うので、「悲観」を避け、結果として「楽観」の元に今まで通りの生活を望み、結果として「茹で蛙」になる可能性も高くなります。

そんなタイプ6日本人は、カタストロフ(大惨事)でもないと、動けないのです。
でも、そういうときは、大抵、手遅れになっているのですけども。


明治や敗戦後の、日本の初期化は比較的に成功したと言えますが、
次の 大カタストロフ後の初期化も、成功するとは限らないのですけどもね。
今は、タイプ6日本人の苦手とする「(安心・安全・安定が揺らいで進む)変化の時代」なので、初期化しても、時代について行けないことに変わりない可能性が高いという。

参考
日本人はタイプ6

2018/10/26追記
2018年10月末の時点で、今回の話で説明できそうなニュースが2つ出てきました。
それで、追記を行ないます。

一つ目

大量懲戒請求 賛同した女性「洗脳状態だった」(毎日新聞)』より

「在日コリアンらの排斥」を訴えるブログの呼び掛けに応じ、多数の読者が2017年、各地の弁護士を対象に計約13万件の懲戒請求を出した問題で、実際に請求書を出した女性(50歳代、首都圏在住)が毎日新聞の取材に応じた。女性は「ブログに不安感と恐怖感をあおられた。洗脳状態だった」などと主張し、「現在は請求したことを後悔しており、謝罪文を送付して一部の弁護士とは和解した」と話した。
女性は大量の懲戒請求について「負担感は全然なかった」と振り返る。ブログのコメント欄に自身の住所・氏名を書き込み意思を伝えると、昨年5月と10月にそれぞれ約200枚の告発状と懲戒請求書が送られてきた。対象者名や請求理由は記載済み。女性は自分の氏名と住所を書き込んで押印、まとめて東京都板橋区にある指定場所へ郵送するだけだった。ネット動画を見ながら作業し、半日もかからずに書き終えたという。
請求された弁護士らが逆に、業務妨害などとして損害賠償請求する動きが報じられ、初めて「恐怖を感じ、まずいことをしたと気づいた」と言う。

これも同じ構造だと言えます。
自分が安心・安全・安定な場所にいると思うと歯止めが効かなくなり、
損害賠償請求されそうになり、安心・安全・安定が崩れる危険に直面してはじめて
「恐怖を感じ、まずいことをしたと気づいた」
となる。
そして安心・安全・安定が崩れる責任を取りたくは無いので、
「洗脳状態だった」
と主張する。

これは『ちょっとだけ気になる「~された」という言葉』ともつながる話です。

二つ目

2018年5月、経団連の会長に中西宏明氏が就任されたそうですが、
このとき初めて会長室にPCが設置されたそうです。
このことを伝える話が読売新聞10月24日朝刊に掲載されました。

これも、
安心・安全・安定な身分になってしまえば、それ以上は学ぶ必要が無いということです。
また、それを求めない社会でもあるのです。

森元総理はITをイットと発音したそうです。
では、周りの人はそれを注意したのでしょうか?また、学ぶことを国民は求めたでしょうか?

地位が上がって、安心・安全・安定な身分になった人に対して、タイプ6社会は甘いです。

また、タイプ6日本人は、自分にも甘いです。
だから、自分自身が安心・安全・安定の立場になったときに内発的向上心が無いタイプ6日本人は、向上せず停滞します。

確かにタイプ6日本人は勤勉な面も持ち合わせています。
それは、周りとの関係性を見て、安心・安全・安定である真ん中にいたいからです。
過去に『伊藤祐靖の言葉から日本のタイプ6な国民性の箇所を抜き出してみる』で取り上げましたが、
伊藤祐靖氏はこのように指摘しています。

本当はただのグータラなのに「あいつはバカだ」と思われたくない。そこそこ目立たないでいたい気持ちがあるから、嫌でも勉強したりする。

こういった面がある一方で、タイプ6には関係性で周りを見る癖が強すぎて、内発的な動きがすっかり退化してしまっています。
このような状態で、安心・安全・安定な状況になると、タイプ6の成長する時間は止まってしまいます。

2018/11/02追記
「そんなタイプ6日本人は、カタストロフ(大惨事)でもないと、動けないのです。」
に関連して追記

ノーベル賞の中村修二さんが似たようなことをインタビューの中で語っていました。

より

「本来、こんなにも悲惨な状況に置かれていて、米国なら市民が政府を訴える。このインタビューは日本で読まれる限り、私の言いっ放しになるだろう。官僚や政治家、市民、日本は誰も動かない。米国なら司法を通じて市民が社会を変えることができる。日本は何も変わらない。それが当たり前だ、仕方ない、と思っているから沈んでいるということに気が付くべきだ。一度すべて壊れなければ、若い世代が再興することもできないのだろう」


2019/04/07
タイプ6日本の「無限責任」と「無責任」について、もう少し追記

自分で書いた『なぜ「高輪ゲートウェイ」駅になったのか』の追記部分を元にして書きます。


コラムニストの小田嶋隆さんが、なぜ「高輪ゲートウェイ」になったのか?につてい論じています。

より

 もっといえば、私は、「高輪ゲートウェイ」という珍奇な(というよりも、あらかじめ特定の意図を持った人間でなければ発案することが不可能であるような)名前を応募した人間が36人もいたこと自体、「仕込み」だったのではなかろうかと疑っている。

 では、どうしてJR東の偉い人たちは、はじめから結果を尊重するつもりもないのに、わざわざ公募という手段に打って出たのであろうか。

 ここから先は私の憶測だが、おそらく、駅名を決定する権限と責任を持っている人々は、その一方で新駅の名称を、自分たちの責任において名付けることから逃避したかったのだと思う。

 だから、彼らは「公募」に逃げた。
 こうしておけば、自分たちが一方的に上から決めたのではなくて、「広くご利用客の皆様のご意見をうかがったうえで総合的な見地から判断して」新名称を決定するに至ったという外形を整えることができるからだ。

これはタイプ6日本人から見ると、正しい見方です。
リソ&ハドソンのタイプ6の通常レベルの記述(レベル4)にはこうあります。

段階4では、より健全な<段階>にいるタイプ6に見られる自己への信頼は消え始めており、(略)通常のタイプ6は、自分自身で決定を下さずに、文書資料、権威のある印刷物、規則・法令 ─── 何らかの「聖典」─── などに前例か答えを求めるようになる(指導者として働く通常のタイプ6は、特にそうすることが多いようで、自分で決めることはせずに、委員会などをつくり、総意によって運営するようになりがちである)。
(略)自分は批判や罰を受ける可能性を避けられると感じる。

そう、「自分で決めることはせずに」「総意」という形にもっていって、責任を回避するわけです。そうすれば、「自分は批判や罰を受ける可能性を避けられる」と感じているわけです。

始めの記事からもう少し引用します。

 ところが、彼らは、責任から逃避した一方で、権限は手放さなかった。
 すなわち、公募を介して広く一般の意見に耳を傾けるがごときポーズをとってはみせたものの、その実、公募の結果はまるで尊重せずに、命名権に関しては自分たちの権限を100%押し通して、はじめから決まっていたヒモ付きの名前を持ち出してきたわけだ。

この部分は堤清二の

企業や組織のトップが何をやってもいいのだという「無限責任」と、責任を取るべき時に責任を取らない「無責任」が共存していて、そこから脱却しない限り日本の組織はダメになるよ、という予見

と、つながっています。

タイプ6日本人は、安心・安全・安定の中にいたいので、責任というものに手を出したくはないのです。でも権限という安全は欲しいという。自分にとって安全な運用はしたいという。

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