村上龍のヴェンチャー論とタイプ6な日本人

コンフォートゾーンの話なんかを書いてきて、
村上龍の『ヴェンチャー=少数派という原則』という文章の理解が
少し進んだかなという感じです。

安心・安全・安定が大切なエニアグラムのタイプ6な日本人は、
コンフォートゾーンを求めます。
コンフォートゾーンとは、一言でいうと、「安全(快適)領域」と言ったものです。

タイプ6な日本人は、安心・安全・安定が大切なので、絶対安全な正解を求め、失敗を恐れ、少数派であることを嫌います。
コンフォートゾーンからは出たくはありません。

より

本日発売のGOETHE(ゲーテ)
(※ 幻冬舎が発売する男性向けビジネス・カルチャー・生活情報誌。
リンク先に雑誌の写真が出ているが、これは2006年2月発売の4月号だと思われる)
からの抜粋↓

ヴェンチャー=少数派という原則 村上龍

ヴェンチャーの概念や文脈はいまだに誤解されることが多い。もっとも多いのは、「ヴェンチャー企業を興したいのですが、どのビジネスがいいでしょうか」という質問に代表されるひどい誤解だ。数年前、NHKの経済番組のヴェンチャー特集座談会で、最後の質問として実際に司会者がそういうことを聞いた。

「自分で考えて決断するのがヴェンチャーであり、質問そのものがヴェンチャースピリットにそぐわない」というようなニュアンスのことを言って、一橋大の米倉誠一郎氏は回答を拒んだ。米倉氏の指摘はまったく正しいが、そのような認識の持ち主は大手既存メディアの中ではいまだに少数派だ。

誰もやらないことをやれ、というのが本誌のタイトルだが、わたしは違和感を覚える。やれと言われて、はいやりますというような人はそもそもヴェンチャーには向かないからだ。誰もやらないことをやろうよ、というタイトルも同様だ。誰かに誘われて金魚の糞のようについていってヴェンチャー企業ができるのなら、今ごろ日本社会には大いなる活気がみなぎっていることだろう。
やれという「命令・指示」、やろうという「提案・勧誘」、やったほうがいいよという「推奨」(、やりますという「受け身」 ※勝手に言葉を追記しています)などは、いずれもヴェンチャーの本質や原則に逆行する。

ヴェンチャースピリットを持つ人は原則的に少数派だ。みんながやろうとしていること、みんながすでにやっていること、すでにニーズが満たされていること、価値が定まっていること、それらに本能的に背を向ける資質がなければヴェンチャーなどやれない。ただしそれは他人の言うことに耳を傾けないという意味ではない。情報や知識やネットワークへの飢えを持ちつつ、少数派の立場を常に維持しなければ、あっという間に「既成」の波に呑み込まれるということだ。

トヨタもソニーもホンダも、創業者は社会の少数派だった。小規模で孤独な環境から出発し、多数派に加入する誘惑を断固として拒絶すること、それがヴェンチャーの原則である。

ヴェンチャー=少数派という原則 村上龍

引用の中にある ※ 部分は、私が付け加えた文です。

この文章は、本としては、『無趣味のすすめ』(幻冬舎)にに収録されているようです(一言一句同じかは不明)。

文中に、
「自分で考えて決断するのがヴェンチャーであり、質問そのものがヴェンチャースピリットにそぐわない」
とありますが、
正解を求めている時点で、もうヴェンチャースピリットでは無いわけです。

そして、快適空間であるコンフォートゾーンに留まりたい人も、ヴェンチャースピリットから遠い人なわけです。

「ヴェンチャー企業を興したいのですが、どのビジネスがいいでしょうか」という質問に代表される、自分の快適は維持しつつ、他者に答えを求める依存は、タイプ6な日本にまん延しています。

この文章が書かれたのは、2006年ですが、それから今までの間に、ヴェンチャースピリットへの理解がどれほど進んだのかといえば、あまり進んでいないようにも思っています。

それで理解が進めば、依存的なタイプ6日本人にヴェンチャースピリットを求めるにも無理があることが分かってくるわけです。

(分かってきた人が、「若者に期待」とか、自分以外の何者かに期待という名の依存をしているのでしょうかね)

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