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映画「パヴァロッティ~太陽のテノール~」

「パヴァロッティ~太陽のテノール~」という映画のDVDを観た。
副題に「歌とその生き方で世界を照らしたひと」という表題がついていた。
たまたま、図書館で見かけたというのもあって、借りてみようと思った。
実は、私は、パヴァロッティのことをあまりよくは思っていなかった。
どちらかというと、三大テノールでいうと、プラシド・ドミンゴの声のほうが好きだったし、それに、ある映画(実話)で、パヴァロッティが、自信なさそうに唄う歌い手に、君は歌手に向いていない、と手厳しく話すシーンを見たからだ。なんてひどい人!とその時感じた。(その後、その歌手は、アメリカのゴットタレントのオーディションで優勝し、歌手としてデビューすることになった=ポールポッツ)
そんな、私にとっては、あまり良い印象のないパヴァロッティだったが、この映画を観ることで、大きく印象が変わってしまった。

一言でいうと、パヴァロッティは、「愛の人」だった。

パヴァロッティは、凄く自信家に見えていたけれど、実は繊細な部分もあった。笑顔で陽気に振舞っていたのは、幼い頃の戦争や病気の体験からだった。生き延びることができたら、楽しく人生を生きようと思ったようだ。
パヴァロッティの歌の才能について、父親は認めなかったが、母親は認めていて、パヴァロッティがオペラ歌手になることを応援した。

そして、世界的な人気を誇ったテノール歌手であるエンリコ・カルーソーのように、パヴァロッティは、どこに行っても何十万もの観客を動員する歌手になった。パヴァロッティは、新時代のエンリコ・カルーソーになったのだ。

だが、幸せそうに見えた彼の結婚生活は破綻していたらしく、不倫をしていた。その不倫相手の彼女は、多発性硬化症と診断された。彼女から別れを切り出されたが「今までは君を愛していた、これからは君を崇拝する」と言ったパヴァロッティ。もう60歳を迎えていた。

オペラ歌手であるホセ・カレーラスが白血病になった時も、彼が復活したとき、彼の復活祝いのために三大テノールのコンサートを開いたりした。
また、パヴァロッティのコンサートに来ていたダイアナ妃とお互いに意気投合したことがきっかけなのか、パヴァロッティは社会貢献活動を始めた。そのことによって、自身の歌の活動の行き詰まりを抜け出すことに繋がったのか、笑顔が増えているのがうかがえる。

不倫やロックスターとの共演によって、クラッシック界や世間はパヴァロッティを批判したが、そんなことは気にしないのが彼の凄いところ。
ロックスターに曲を書かせた方法も強引で計画的。そして、いつの間にか、ロックスターも彼のファンになっている。そんな魅力を持っているのがパヴァロッティなのだ。
晩年は、以前のような高音が出ていないなどと評されたパヴァロッティのことを、作曲を依頼されたロックスターは、こう語っている。
「挫折を重ねないと出ない歌声だ。歌に差し出せるものは自分の人生だ。これまで生きてきた人生、犯した間違い、希望や欲望をひっくるめて歌にぶち込む。」と。
その時のパヴァロッティの歌声は、いや、表現は、演技というよりも、
自身の人生の物語を表現しきっているかのように見えた。
声を張り上げるだけではない繊細な感情表現がそこにはあった。
弱々しかったり、悲しかったり、虚しかったり、願いだったり、いくつもの感情が行き来しているかのようだった。
高い声が出るとか、綺麗な声であるとか、そんなことよりも大切なことがある。それは、自分の感情を表現できているかどうかだ。それが出来た時が、
歌がその人のものになった時だ。

パヴァロッティは、晩年に何を思っていたのだろうか?
再婚した妻には、子供ができて、映画では、妻と子供との幸せな仲睦まじい姿が映し出されていた。
きっと彼は幸せだったに違いない。たくさんの人の幸せに貢献したのだから。そして、クラッシック音楽の垣根を越えて、ロックやポップスも愛していたのだと思う。そう、音楽にジャンルはない。自由に唄えばいいのだ。

パヴァロッティは2007年に死去。
1億枚以上のアルバムを売上げ、1千万人以上の観客を動員した。
彼が始めた声楽コンクールから多くのオペラ歌手が巣立っている。
紛争地域に救援センターを設立。子供達のために数百万ドルを集め、
その事業は、今も続いている。

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