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(1)食べなければ、生きられない。

約6550万年前、中生代、白亜紀。中央アジアの、とある湿原の森に、一匹のタルボサウルス・バタールがいる。低地の氾濫原に立ち、周囲の気配を伺っている。

タルボサウルスは、ティラノサウルス科に属する、アジア最大級の肉食恐竜だ。「タルボ」は古代ギリシア語で「恐怖」を意味する。全長10メートル、高さ4メートル超の巨体を持つ。貴方がそのサイズ感をイメージするならば、街を走る路線バスを見上げてみるといい。全長も、高さも、概ね一致する。あの大きさの肉食恐竜が眼前に迫り、鋭利な歯をこちらに向ける様子を想像すれば、被捕食者にとっての「恐怖」は、充分に想像がつくだろう。

タルボサウルスは嗅覚がとても優れており、それを頼りに獲物を探す。一匹の草食恐竜に出くわした。サウロロフスだ。鳥脚類の恐竜で、体長は10メートルと大きいが、植物食である。無数の小さい歯の予備列、いわゆる「デンタルバッテリー」を顎の下に持つ。堅い植物の枝や実をすりつぶしやすいよう、歯がすり減っても、新しく生え変わるためのスぺアが、顎の奥に控えている。植物を効率よく食べるための進化だ。

狩りは一瞬だった。タルボサウルスが、サウロロフスの首筋に噛みついた。タルボサウルスのあごが持つ咬合力は約4万ニュートン前後とされ、グリズリーの4倍以上ある。草食恐竜を、骨ごと噛み砕ける。サウロロフスの首は断ち切れ、なすすべもなく絶命する。こうして、彼は無事に食事にありつけた。サウロロフスの鼻の上には、頭頂まで伸びる、とさかのような突起があり、そこを膨らませて、群れの仲間に声を出していたとされている。このときは断末魔で警告を伝えたかもしれないが、その声はかすれて、仲間には届かない。

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現在ではゴビ砂漠と呼ばれている、この乾燥地域一帯も、当時は湿潤な気候を持っていた。うっそうと茂る木々。定期的に雨は降り、日差しは適度に注いだ。周囲の地形も現代とは異なる。白亜紀の時点では、インドは全域ともまだ離島だったし、中国は半分以上の面積がまだ海だった。

タルボサウルスを始めとする獣脚類は、白亜紀の最後に、ほとんど絶滅したが、その唯一の生き残りが現在の鳥類である。鳥類が獣脚類の一部であることは、その骨格の類似性からも伺える。また、現代の渡り鳥が、長旅に耐えられる持続力を持っているのは、恐竜の頃の名残だという説もある。恐竜が三畳紀に獲得した、低酸素でも活動できるだけのインスリン耐性に由来しているのだ。当時の地球は、酸素濃度が現在の半分程度しかなかったことが分かっている。約2億5000万年前の低酸素トレーニングが、現在の鳥のスタミナを支えている。

タルボサウルスの足元を、一匹のネズミが這い回る。恐竜とほぼ同時期にこの世に現れた哺乳類は、その多くが体長10センチほどで、主に昆虫食の生物だった。巨大なタルボサウルスからすれば、視界に入ることもなく、捕食の対象にすらならない、まさにショーの端役だった。

この頃、森は生命に溢れていた。タルボサウルスは、他にも、草食恐竜であるデイノケイルスやネメグトサウルスを食べていたとされている。タルボサウルスはこの森において、頂点捕食者だった。彼に襲いかかる者はおらず、また彼自身は食べるものに困らなかった。

地上は彼のものだった。ある年の春、メキシコのユカタン半島沖に、巨大な小惑星が衝突するまでは。

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「チクシュルーブ・クレーター」と呼ばれる衝突跡がメキシコ湾沿いにある。名前はマヤ語で「悪魔の尻尾」を意味する。クレーターの直径は、約160キロメートル。現在、表面地形から、小惑星衝突の跡は伺えないが、現地の地質や磁場を分析すれば、大きな衝撃の影響が今も残っているのを確認できる。

この小惑星の衝突を境に、地球上の生物種の4分の3が絶滅したと言われている。個体数でいえば、99%以上が死滅した。この衝突の日を分け目とする、地層上の境界線を、地質年代学では「K-Pg境界」と呼ぶ。この境界を前後して、地球の生態系は大きく変わったことを、地層は物語る。この日を境に、表舞台から姿を消した生物が無数にいるのだ。

衝突した小惑星は、直径10~15キロと推定されている。東京都にある山手線の環とほぼ同サイズの石塊だ。充分に大きいとはいえ、それが地球全域を巻き込むほどの絶滅劇を招くものか、研究者間でも長らく議論がされていた。2023年現在では、この小惑星の一撃が、恐竜絶滅の決定的な引き金だったという説の方が有力だ。

衝突直前の小惑星は、時速およそ6万4000キロの速さだった。衝突のエネルギーは、TNT換算で100兆トンと推測されており、これは広島原爆の100万倍以上に相当する。衝突地点から1000キロ圏内の地表は、圧力と火球、熱放射によって焦土と化す。地球化学者グレゴリー・ヘンケスの研究によれば、衝突地点の1600km先、メキシコ湾の対岸にあるテキサス州ですら、衝突直後に温度が155度に達していたことが分かっている。業火の後には、最大300メートルの津波。さらにマグニチュード10を超える地震。続いて時速1000キロ近い爆風が全ての物をなぎ倒していく。まさにカタストロフィだ。

タルボサウルスは、遠く東の空に閃光が走るのを見かけた。月や太陽をはるかに上回る大きさの光の塊が、彼方の地に落ちた。落下地点から、ゴビまでは1万2000キロメートルほど離れていたが、その影響は衰えることがなく、訪れた厄災は、十分な絶望を携えていた。昼間にも関わらず、唐突にあたりが闇に包まれたのだ。
小惑星が落ちたメキシコ湾沿岸は、有機物の堆積を多く含むエリアである。そのため衝突による熱によって、有機物起因のすすが大量に生成されやすい環境だった。その結果、不幸なことに、巻きあがった土煙で陽の光は大幅に遮断され、植物や、海中のプランクトンの光合成が不可能になった。すすによる闇は少なくとも2年にわたって続き、地球全体の月平均気温は、8度から10度ほど下がった。生態系への影響は計り知れない。

小惑星が衝突したのは、北半球における春の季節だったと特定されている。K-Pg境界の地層から見つかったチョウザメの骨に、成長の年輪が刻まれており、そのパターンから季節が判明したからだ。恐竜は、現在の鳥類と同じく、春に繁殖し子供を増やす生物だとされている。世界が闇に包まれたこの日、子供は生まれて間もないか、卵からかえる間際だった。そのため、被害が大きくなった。か弱い命は、唐突に訪れた厳冬に耐え切れなかったのだ。

未曽有の大災害のなか、体重が25kg以上になる四肢動物のほとんどが、連鎖的に絶滅した。サウロロフスなどの草食動物も例外ではない。彼らが栄養源にしていた植物は、のきなみ枯れ果ててしまったからだ。

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地球上では、このK-Pg境界の大量絶滅を含め、これまで5度の大量絶滅が発生している。これらは通称「ビッグ・ファイブ」と呼ばれ、とりわけ、K-Pg境界の大量絶滅は、古生物史の研究でも、常に重要なトピックのひとつだ。研究も盛んで、新たな論文がたびたび発表され、既存の学説を塗り替える。

2022年にも、重要な発掘が科学者によってなされた。小惑星衝突の当日に死んだと断定できるテスケロサウルスの化石が、アメリカのノースダコタ州にある採掘場から出土したのだ。この歴史的発見に、科学者は歓喜した。発掘者に「とてつもなく美しい」と評されたその化石は、今後の分析を経て、その日に起きた物語を、雄弁に語ってくれるだろう。高度化した解析技術は、ある意味で、タイムマシンだ。

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小惑星衝突によって環境が激変した末、生き残った種の多くは、水中や湿地で生活する生物か、体が小さい生き物だった。現在の鳥類が生き延びられたのも、彼らの一部に、水中や湿地に逃れる能力があったからだと言われている。
陽の光が届かず、地上の植物が冷えて枯れゆくなか、カメやワニなど、半水棲の生物は、腐肉や微生物死骸の粒子から栄養を得て、なんとか食いつないだ。変温動物はもともと食料を多く必要としなかったことも幸いした。

哺乳類は、恒温動物で、生命維持に多くの食料を必要とする。そのため、純粋な草食動物や肉食動物は耐え切れず絶滅した。だが、雑食・昆虫食・腐肉食動物は、体が小さければ、生き延びられた。ネズミのような生き物、「プロトゥンギュレイタム・ダネー」も、この災下を乗り越えた一例だ。体が小さく、昆虫食だった。これが現生哺乳類の祖先である。つまり、人類の祖だ。

本題からはそれるが、カブトガニやシーラカンスなど、「生きた化石」と呼ばれる生物種は、こうした大量絶滅を何度も乗り越えた生物ということになる。カブトガニ類は4億8000万年の間、生き続けており、5度の大量絶滅すべてを経験して、なお現生の生物だ。現代医学において「ライセート試薬」と呼ばれている薬品。人体に投与するワクチンに、細菌の毒素が含まれていないか検査できる、この薬品は、カブトガニの青白い血液を元に生成される。新型コロナワクチンの安全性の検査にも用いられ、2020年を境に、需要は大幅に増した。これまで幾度も苦難を乗り越えた節足動物の雄は、時を経て、さらには疫病と戦う人類を救った。ヒロイックな存在だ。

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かつてこの地の支配者だったタルボサウルスが、天を仰ぐ。食べられるものが見渡す限り、どこにも残っていない。彼は絶望した。食べなければ、生きられない。最後は、冷え切った体を丸めて、彼は息絶えた。消えゆく意識の中で彼は思った。こうして自分は世を去り、忘れ去られていく、と。

やがて、その遺骸の上に、土の層がかぶさる。地中のバクテリアによって肉が分解され、骨だけが残る。その後、長い年月をかけて、骨の組織に鉱物が浸みこむ。彼の骨は形状を保ったまま、石のように硬くなる。その6550万年後、生き残ったプロトゥンギュレイタム・ダネーの末裔が、前足で掴んだ工具を砂漠の岩石に打ちつけて、化石となった彼の骨を掘り出す。ついに、彼の元に、6550万年ぶりに陽光が照った。「やった!ついにタルボサウルスの全身骨格化石を発見したぞ!」その末裔の男は、複雑な音声言語を操り、喜びを仲間に伝える。

→第2節に続く

連載「食べるために、食べる。」(全4節)

第1節 食べなければ、生きられない。

第2節 食べられないために、食べる。

第3節 食べられるために、生きる。

第4節 食べるために、食べる。

参考文献


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