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(3)食べられるために、生きる。

他の動物たちにしてみれば、人間はすでに
とうの昔に神になっている。

ーー 歴史学者 ユヴァル・ノア・ハラリ
出典:ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来

私は、江蘇省の農村にある養鶏場で、再び生まれた。時は西暦2023年。温度管理された鋼鉄製の孵化ラックの中に、私はいた。全身が燃えるような感触がうっすら残っているが、気のせいだろう。ラックの中は幸いにして一定の温度に保たれていた。

その後、私はトラックに載せられ、おがくずが敷かれた鶏舎に運ばれる。その際に奇妙だったのは、私の周りに、同じ背格好の雛がひしめきあうほど沢山いたことだ。そして、母鳥らしき者は辺りにいない。それどころか、大人の成鳥が一羽たりともいない。ジュブナイルSFでときおり描かれる、ディストピアの少年少女都市のような光景がそこにはあった。

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2023年現在で、地球上に個体数が最も多い鳥類は、ニワトリだ。全世界で約230億羽と言われている。2番目に多いのは、スズメの一種である野鳥のコウヨウチョウだが、その数はニワトリの10分の1以下だ。

また、鳥類だけでなく、哺乳類も含めた全ての恒温動物のなかでも、ニワトリの数が最も多いとも言われている。野生動物、人間、家畜、全てを含めても、だ。野生動物の個体数は推計には過ぎないが、ネズミ、犬、猫、鳩、リス、こうもり、牛、豚、どれと比べてもニワトリの方が多いとされている。個数を見れば間違いなく、鳥類は、再び地球上で最大の繁栄をなしえており、地上の王者に返り咲いたといっていい。獣脚類のほとんどが絶滅した、6550万年前の惨劇から考えれば、大いなる再起と言える。

だが、その実態は、王者には似つかわしくない、絶え間ない奴隷としての奉仕であった。わずか1600年前、かつて心を交わしていたニワトリに対し、人類は侮蔑的な処遇を与えていた。

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生まれて49日が経ったころ、私は絶望につかりきって、目の奥の生気を完全に失っていた。あいかわらず羽を拡げる隙間もないほどの密度の鶏舎に、無数の若い鳥たちが押し込められている。蒸し暑い。今は夜中の4時だが、また今日も眠れない。昼でも夜でもない、ろうそく灯り程度の明るさを絶え間なく我々に浴びせ続けることで、食欲が増すように促されているらしい。私たちは暗いと、ものがあまり見えない。運動するほど活動的にはならない明るさのまま、ただ食事だけが進む。

なにより狭すぎて、食べるぐらいしか、することがない。周りの全員が若鳥とは思えぬほど、ぶくぶくと太っている。体重が増えるペースに骨格の成長が追いつかず、歩けなくなっている仲間もいる。足元のおがくずは自分たちの糞で固まって、ずいぶん歩きにくくなっている。

きっちり50日間。それが私に与えられた命の長さだ。49日目にあたる今朝、唐突に給餌が行われなくなった。同胞たちは空腹に耐えかね、不満の鳴き声をあげ始めた。「もう、胃も腸も空っぽだ。なんとかしてくれ」。だが、それこそが、給餌者の狙いだ。腹に何も入っていない方が、最終日の『処理』がしやすいからだろう。

そのあとの最終日の出来事はよく覚えていない。出荷と称され、仲間たちと共に、再びトラックに載せられる。激しい痛みと共に絶命し、再度、生を受け、目が覚めた時には、またこの鋼鉄製ラックの中で、雛鳥に囲まれていた。あの真新しい、おがくずの上で、眠れない50日が始まるのだ。もしかして、この螺旋は、ずっと続くのか?

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現在ブロイラーで用いられる、食肉用のニワトリは、遺伝的改良を受け、原種の野鶏より採肉量が5倍増もしている。骨格形成に必要な栄養が不足しているうえ、軟骨が形成される前に体重が増えてしまうので、多くのニワトリは歩行障害を患う。彼らは最初から、鶏肉になるためだけに生まれてきた。

ブロイラーがここまで技術の集約的産物になったのは、1950年ごろからだ。ニワトリを始め、牛、豚など、家畜たちに死の奴隷労働を課すことで、人類は、ついに飢饉を抜本的に乗り越えられた。今や餓死は、ほとんどの国では、ほぼ発生しない。作家のナンド・パラードが言う「人間の最も原始的な恐怖」である飢えから、人類は逃げ切ることに成功したのだ。あとは、安定した政治と経済という両輪さえあればいい。毎夜、その両輪を荷車にし、地球上のほとんどの人間の食卓へ、充分なカロリーが提供されている。

畜産技術に限らず、この100年、人類は飛躍的に科学を進展させ、それをテクノロジーと結びつけることで、多くの問題を解決した。ワットが叶えた蒸気機関が、人々や物資を遠方に運んだ。パスツールがワクチンを開発して、人々を疫病から救った。シュレーディンガーらが見つけた量子力学の概念は半導体技術となって結実し、コンピュータという、卓越した外部脳を人類にもたらした。

ライト兄弟の挑戦により、天空も、彼ら人類の所有になった。かつてはここが鳥たちの領域だったことも忘れ、いまや人類は、航空機のエンジン吸気口に、野鳥が舞い込む事故を「バートストライク」と呼び、それを不運な現象だと思っている。やれやれ、運悪く、自分たちの航路を鳥が遮った、と。

仮に今、ユカタン半島に全長10キロの小惑星が迫ったとしても、もしかしたら、人類はテクノロジーで災害発生を防げるかもしれない。まず天体観測技術により、地球に衝突しうる巨大な小惑星については、95%以上を特定できており、その軌道が地球に向かわないことを確認している。また、万が一の事態に際しても、準備は始めている。2022年9月、「キネティック・インパクター技術」により、宇宙にある、直径160メートルの小惑星の軌道をわずかに変えることに成功した。将来、同じ方法の延長上で、巨大な小惑星の進路を修正できれば、人類は勝利できる。あとは、映画「ドント・ルック・アップ」のように、人類が、小惑星の資源に固執したりしないことを祈ろう。

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私が、この狭いケージのなかで責め苦を受ける無間地獄も、畜産技術というテクノロジーによって、もたらされたものだ。人類は、私たちの生命活動をハックした。品種改良という技術を使って、私たちを、歩けなくなるほど太らせることができた。私たちは、意志とは無関係に繁殖し、その数を230億羽まで増やした。

夜中なのに眠れず、頭がもうろうとする。ケージの中は、昼夜が分からなくなって鳴きわめく同胞で満ちていた。胸も苦しい。聞けば、同胞の約1%は、出荷前に心臓疾患で息絶えるという。無理もない。

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テクノロジーだけではない。この工場的畜産システムを、人類を取り巻く宗教や思想が、サポートしている。

宗教、特に一神教の教えは、今なお人類の大半に対し、倫理観の礎を成している。一神教が説く世界観では、ホモ・サピエンスは、他の動物と一線を画す特別な存在として、しばしば描かれる。そこでは、家畜の生殺与奪の権限を人類が握ることを容認している。

20世紀に「資本主義」というOSが登場したことも、ニワトリたちにとっては凶報だった。資本主義は、単なる経済システムや政治制度の範囲には収まらず、人々の倫理観や行動規範をアップデートさせる力があった。人々にとって、これはまさにOSだった。そのOSは人々に、経済効率を優先した行動を採ることを促す。

都市型の暮らしをする多くの人間は、犬猫を家族とし、その死に涙する感情を持ち合わせながら、毎夜、ニワトリの死骸を口にするときには、心の痛みを感じない。その矛盾を人々に気づかせないようにしているのが、資本主義というOSの力だ。経済合理性を追求する思想観念を通してみれば、スーパーマーケットに並ぶ、安価な鶏肉は魅力的である。その価値観が、ニワトリの精神的苦痛に対する想像を曇らせる。資本主義がもたらす倫理観は、ブロイラーを推し進める際に、麻酔薬の役目を果たしたのだ。

人間は対話によって、相手の感情を読み解くことに慣れてきた。逆に、対話できない相手には、そこにある感情を想像しにくい。愛する飼い犬や猫には、首輪型のスマートデバイスをつけ、心拍数や行動記録から感情を代弁するアプリが開発され、すでに製品化されているが、この技術が、鶏舎のニワトリに向けて実用されることはないだろう。

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出荷後、私が、再びこのケージの中で目覚めたとき。この生命を搾取されるタイムループが続くことを知ったときの絶望は、これまでに迎えたどの絶望よりも深かった。天災よりも、人災よりも、テクノロジーが生み出したシステムの方が、強固で永続的な分、残酷だった。

どうか、この輪を断ち切ってくれ。私は祈る思いだったが、これを誰に祈っていいのかは解らなかった。

→第4節に続く

連載「食べるために、食べる。」(全4節)

第1節 食べなければ、生きられない。

第2節 食べられないために、食べる。

第3節 食べられるために、生きる。

第4節 食べるために、食べる。

参考文献


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