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(4)食べるために、食べる。

その夜、東の空が、帯状に極光をなした。私たちの無数の祈りが粒子となって天高く舞い、人類の叡智という大気のカーテンに衝突し、まばゆくプラズマ発光したかのように見えた。まだほんのり明るい程度で、深い闇夜に対してわずかな瞬きではあるが、その祈りは光を放ち始めた。

救いの光の源は、倫理であり、哲学だった。2023年現在、ヨーロッパを中心に、「アニマルウェルフェア」(動物福祉)の思想が浸透し、各国の法令に組み込まれ始めている。アニマルウェルフェアとは、家畜を「感受性のある生命存在」として取り扱い、精神的苦痛から解放する理念だ。動物たちから「飢えと渇き」「肉体的苦痛や不快感」「けがと病気」「恐怖や不安」を遠ざけ、そして十分な空間、適切な施設、仲間の存在を与えることで、生物が元来持つ、正常な行動発現ができる飼育環境を作るべき、という考えである。

すでに、EUでは、採卵鶏に対して「バタリーケージ」と呼ばれる、閉じ込め型の飼育方法が、2012年から全面的に禁止された。2018年からは、イングランドを始めいくつかの国では、全ての食肉処理場で監視カメラの設置が義務付けられている。牛や豚に関しても同様に、アニマルウェルフェアに基づく環境改善が進んでいる。

アニマルウェルフェアの理念自体は1960年代から提唱されていたが、それを推進できるだけの余裕と、そして推進せざるを得ない切迫さが同時に起こり、その機運は近年、大きく高まりつつある。家畜の発する温室効果ガスの影響が無視できなくなってきたこと。2100年に110億人に至る世界人口に対して、家畜を経由する非効率なたんぱく質生産では追いつかなくなりつつあること。そしてなにより、家畜をまるで工場のように扱い、苦痛を与え続ける所業に違和感を感じたこと。それらが同時に論点になったからだ。特に最後の観点は、「エシカル消費」(倫理的消費)と呼ばれる、一般消費者の経済行動の変化により、大きな影響力を持つようになってきた。不適切な環境で飼育された肉を買わないようにする。そうすることで、人類は、かつてニワトリを神の使いとして扱い、心を交わした頃の考えを、ようやく取り戻そうとしている。

※とはいえ、これを読む貴方が、いま動物肉を食べていることに、引け目を感じる必要はない。アニマルウェルフェアの理念は、七面鳥を囲むクリスマスの家族団らんを、野蛮な殺戮パーティーだと揶揄しているわけではないのだ。動物肉を食べる自由も、食べない自由もある。選択は、あくまで各自の意志に委ねられている。

もし、このアニマルウェルフェアの風潮に同調するなら、貴方に最も期待されている態度は、今後の「許容」だ。これから人類が目指す栄光の作戦「代替肉のテクノロジー」に対して、貴方が、その味や栄養を受け入れてくれればよい。その作戦は、貴方の食卓に乗ったチキンを、動物由来ではない肉に、気がつかぬよう、そっとすり替える。社会は少しずつ変容し、生活や文化は徐々に移っていく。あなたはそれを気に留めず、昨日までと同じように、大地の恵みに祈ればよいのだ。変化があっても気にせず許容することは、立派なひとつの意思表明である。

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現在、家畜の食肉を置き換える作戦の担い手として、主に3つの方法が提案されている。①植物肉、②昆虫食、 ③細胞の培養肉、だ。

①植物肉への代替は、最も現実的な方法で、すでに取り組みも進んでいる。植物由来の成分のみで、牛肉の味わいを再現するのだ。エンドウ豆から抽出したたんぱく質をベースに、ビーツや酵母エキス、ココナッツオイルなどを配合する。

日本には古来から、代替食品というものは存在している。マーガリンは、バターの代替食品であるし、カニかまぼこもそうだ。従来品の入手困難さを理由に、他の食品で模擬品を作るのは、よくあることだった。ついにアメリカでは、植物肉が「精肉売り場」で販売されるケースも出てきた。味の再現精度が上がってきたことを伺わせる。

②昆虫食は文字通り、コオロギを食べることだ。昆虫食の習慣がない国では、見た目への抵抗感が根深いことから、粉末状にし、他の食品に練りこむ方法が採られている。

この方法は、環境問題への改善度が非常に高い。同程度のたんぱく質を得るのにも、家畜より昆虫の方が生産効率が高いからだ。家畜は、豚やニワトリだと肉として取れるのは、全体重のうち50%程度に過ぎず、牛に至っては30%程度しかない。骨など、たんぱく源になりえないものが多く含まれる。その点、昆虫は体重の全てが肉であり、重量の6割がたんぱく質になる。これは畜産物の3倍以上になる。また長期間、家畜に植物を食べさせるという工程を経ずに済むため、温室効果ガスの排出は劇的に減る。

③培養肉は、文字通り、人工の肉だ。家畜の細胞を採取し、それを培養して製造する、別名「クリーンミート」と呼ばれている。まだ技術的には検証段階に過ぎないが、すでにスタートアップ企業が多くの食品メーカーから出資を受け、製品化に向けて研究開発を進めている。

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私は狭いケージの中で、歓喜の声を上げる。助かった。ようやく、この無間地獄から逃れられる。植物や昆虫、培養細胞には申し訳ないが、ここは肩代わりをしてくれ。

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植物食、つまり植物を工場のように取り扱う事の倫理的是非は、まだ論点になっていない。

最新の科学研究では、植物は決して寡黙な存在ではないことが分かっている。植物は、アオムシに葉を食べられると、葉からカルシウムイオンが発生させ、それを茎つだいに他の葉に伝えることで、他の葉で昆虫が苦手とする毒物質を作り始めるそうだ。これは動物の神経の構造と近しく、これを「痛み」の表現だと、過度に受け取る人間もいつか現れるだろう。だが、それはきっともう少し未来の話だ。少なくとも、現時点では、植物に意識や感覚はないと扱ったとしたとしても、さほど横暴には見えない。

昆虫食はどうだろう。少なくとも昆虫の神経が、痛みに関わる刺激を検出していることは分かっているが、そこに意識や感情が存在するかについては分かっておらず、昆虫が不快を感じているかは明らかにされていない。

まだ研究の余地があるが、仮に昆虫への福祉が見直されるときが来ても、その際には、家畜が苦痛から解放されたプロセスを再び経ることになるだろう。いつか未来、家畜動物へのアニマルウェルフェアの思想を下敷きにし、家畜化した昆虫たちへの痛みを除くことに、人類は力を注ぐかもしれない。だがそれも、今すぐではない。

培養肉は、最も複雑な議論を呼ぶ。生命誕生以来、彼らのようなものは地球に存在しなかった。真の意味でのエイリアンである。

私の細胞から作られた培養細胞は、確実に我々の一部ではあるが、一方で、培養肉に痛みや苦しみが存在しないのも間違いない。ある科学者は「生物片から作られた培養細胞は、元の生物から独立した微生物である」と主張する。その一方で「人間の培養肉を食べることは、倫理的に許される行為なのか?」と問題提起するような思考実験も行われている。両論は人々を揺さぶっており、統一した意見は出ていない。まだ多くの人は、このテクノロジーがもたらす倫理的課題に、現実味を持って向かいあえずにいるのだろう。倫理観は、テクノロジーより遅れてやってくる。ただ少なくとも、現時点では「感覚を持つものを殺すよりは、感覚を持たない厚切りの肉を育てよう」という意見には、多くの人が賛同してくれるだろう。

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‥正直なところ、誰だっていいんだ。全ての案が実現しても構わない。このタイムループから私を解放してくれるなら、どんなエイリアンも歓迎だ。私たちの同胞は、世界中で何万も、連日「処理」されている。状況は一刻を争う。

もし、次に生まれたら、今度こそ私は、食べるために、食べる。眠るために、眠る。そのときは、もう間もなく訪れるはずだ。私は、東の空に向かって、一心不乱に念じた。

そうだ、東方の上空に浮かぶ、テクノロジーと呼ばれる神に対して祈ろう。思えば、私はもともと神の使いだったのだから。その神の、強大な力は、今は私を苦しめているが、最後はきっと手を差し伸べてくれる。

夜明けは近いのだろう。真っ暗だった東の空が、うっすらと色づき始めている。

(了)

→参考文献

連載「食べるために、食べる。」(全4節)

第1節 食べなければ、生きられない。

第2節 食べられないために、食べる。

第3節 食べられるために、生きる。

第4節 食べるために、食べる。

参考文献

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